セネト・パピルス 25
2009/12/8


 ファラオが聞いたら泣きますわねとアイシスは言ったが、無論これは多少に誇張された表現なのではあるが、それを差し引いてもこのことについては懐疑的にならざるを得ない。
 ペルソプドゥに着いた王の軍隊は、圧倒的補給力と地の利によってゲジェメドの東までケタの軍勢を追い返すと、敵兵を追うこともウアセトに帰還することもせず、その地で飲めや歌えやの騒ぎを始めた――。この時点でウアセトの二人に伝わり聞こえたのはそこまでであったが、真実は、まだ幾分異なってさえいたのだ。
「おお、ペルソプドゥ侯。ゲジェメドの処理は終わったか」
 眼前に跪いた男へ、王は声を掛けた。北東新州の当主が賛美の腕を差し掲げる。
「偉大なるファラオの御力に依りましてどうにか。幸い町の損傷は少のう御座いましたので」
「そうかそうか。それは次善であったな」
 アテムは答えたが、その目はもう、侯を見ていない。彼の目は、傍らに侍らした女たちの上にあった。
 酒に食べものに女。それがこの宴の実態なのだ。煩い宰相も王妃もおらず、行いを取り繕うべき相手もおらず、アテムはひと時の自由を謳歌しきっている。褒められた謳歌の仕方ではないが、それを指摘するものもない。
 しゃらり。
 宴が進み一人の女が身を捩った時、彼女の額から星の形の装飾が落ちた。彼女は、目の形や唇がそこはかとなくアイシスに似ていて、女たちの中では一番の美女であった。また彼女の額飾りであったセペデト――タァウイにおいて増水期の始まりを告げる季節星――を思わせる瞳の色は、その青白い輝きが、角度によってセトのようにも見えた。
「私の飾りを取って下さいませ、ファラオ」
 甘い声で女がねだる。
 ああ、こればかりは二人には無いものだ! 説教染みても、儀礼的でもない声!
 アテムは女の星を取ってやると、そのまま渡すことはせず、幾らかの兵たちが既にしたように立ち上がり、女に向かい手を差し出した。
 夜通しの宴が夜明かしの宴となる頃、セペデトの星が最も美しく輝く頃だった。アイシスに似、セトに似、アテムが二人に望む要素を備えた女は、それを、良しとした。


 結局、王がウアセトの王宮へ帰還したのはアケト二月も半ばを過ぎ去ってのことだった。戦地ゲジェメドとウアセトの往復に日が掛かったにしても、ケタとの交戦が実質一週やそこらであったのを思えばあまりに遅い。ナイルを南上し桟橋に着いた王の軍を、何も知らぬ民は『敵を退けし偉大なもの』として讃えたが、大宰相と王妃、そしてセトは、鼻に皺寄せて出迎えた。
「ファラオはようやっとお帰りか。ペルソプドゥ侯の地はよほど楽しかったと見える」
 桟橋へ向かう道すがら、セトが吐き捨てるように言う。隣を行くアイシスが、ええ全く、と相槌を打った。老宰相などは疾うに説教をしに走ったし、マナは知らせを聞くなり気に入りの服に着替えて飛んでいったものだが、二人の歩みは緩やかである。
「かの地で何をなさっていたのやら。考え無しのことでなければよいのですけど」
 言いながら、アイシスは重い装束の裳裾を手繰った。そう。歩くのが遅いのも道理、彼女らは好きでそうしているのではなかった。ただその煌びやかな服飾が、二人の動きを邪魔しているのだ。
 紅玉髄の珠を連ねた上着、王座を模った金の額当て、胸飾り。国家の女主としての権威の象徴が、彼女の身を美しく飾っている。顧みぬ王へ国が誰のものであるのかを思い出させるための、偉大なる女王の格好をアイシスはしていた。
 そして、その隣を行くセトも負けず劣らずの様相である。彼には座席のしるしこそ無いが、公としても神官としても、明らかにその身分を超える出で立ちだった。天青石を睡蓮の形に嵌め込んだ金板が幾つも首の周りを飾り、孔雀石を鱗のように編んだものが、布の服の代わりに肩から吊られている。当然のこと瞳には緑の目墨が入れられていて、頭には青い日除け布を被り、その姿は巨大な睡蓮が魂を得て歩いているようでさえあった。
 セトの格好は男のものでも女のものでもなく、彼がそれを強調するのは、多くの人々にとって意外なことだったろう。他の面々に遅れて現れた二人に、出迎えの貴族連中は皆目を瞠った。
「貴方はここで待つのかしら」
 船着き場は民の前に開けているが、その手前に張られた日除け通路の内でアイシスがセトに問い掛けた。セトは黙って頷く。それ以上、行けるわけが無かった。このような姿を民に見せては、折角収まった寵の噂がまた広がってしまう。
 セトが立ち止まると、アイシスは一旦同じように止まり、額当ての位置を直してから再び歩を踏み出した。王はもう船を降り、シモンに搾られマナに纏わり付かれ共に行った貴族たちと並び歓待され民の声を受けている。そこへ、アイシスはゆったりと近付いた。
 まず一人の貴族が彼女に気付き、その周囲のものが気付き、民の歓声が王の軍を賛美するものから偉大なる王座の女を讃えるものに変わり、それで漸く王が気付いた。北東の新州で夢ばかり見ていた目が現実を見る。アテムはいかにもばつが悪いといった様子で、国家の女主に立場上取りうる限りの礼をした。
「わたくしの王座へ、ようこそお帰りなさいましたわファラオ。お立場を思い出されたようで何より。けれど、気まずくなるのはもう少しあとになさった方がよろしく思われましてよ」
 王座を蔑ろにしたことは先にシモン様が叱って下さったのでしょうから。言って、アイシスは常より壮麗な化粧の瞳をちらりと後方へ流した。アテムも釣られてそちらを見る。
 視線の先、民からは隠れ、位あるものたちが船を降りた位置からは良く見えるその場所に、セトが出てきていた。遠目にも分かる豪奢な装束が陽に輝いている。一般貴族は勿論のこと、シモンもマナも、そして何より王までもが、あっけに取られ唇を開け放した。
 セトは王の目が自分を捉えたと見ると、人々の様子には気も払わず、ふいと踵を返し日除け通路の中へ舞い戻った。金の鳴る音、孔雀石がぶつかり合う音、聞こえる筈の無いそれらが桟橋に響く。セトの姿が通路の奥へ消えるまでの間中、皆が、呆然と彼を見送った。
「何よあれ!」
 真っ先に我に返ったのはマナである。マナの声で、他のものたちも順に正気付いた。
「おい」
 小声で、アテムがアイシスを呼んだ。セトの態度に何ごとか感じて遠慮したものか、貴族たちは船着き場を離れ、各々の思うところへ散っていっている。小言の途中であった大宰相も、彼の遠慮は他者とは異なる理由であったが、、王の移動の輿を準備させにどこへやら向かっていった。それ故、無遠慮に、アテムは問う。
「あれは怒っているのか?」
 無遠慮に問い、そして、彼は口篭った。
「――認めたくは無いが、あまり、帰りが遅いからと不機嫌になられるほど、好かれているとは思ってなかったんだが。長く帰らなかろうと、清々されるくらいかと。だが、あれは――怒っているのか?」
「わたくしが知るわけないでしょう」
 きっぱりと、アイシスは言い放った。口調には淀みが無かった。
「ご自分でお聞きになってはいかがですか。わたくしにも言いたいことはありますが、それはあとに致しますから」
 辛うじて冷静さが残ったものか民に応えながら、しかし急いてアテムは船着き場を辞した。日除け通路へ辿り着いた途端に、彼は走り出した。
「輿は間に合わなんだか」
 擦れ違うように桟橋へ戻ってきた老宰相が、折角呼び付けたものをとぼやく。まぁ、と宥めるような声の調子で、アイシスが相槌を打った。
「良いではありませんの。民の前を走っていったわけではないのですから。それに、乗る人がいないのでしたら、わたくしがそれを使います」
 それ、と視線だけを動かしてアイシスは輿と担ぎ手たちを指した。
「石で服を作ろうなど、誰が最初に思い付いたのかしら。シモン様もお召しになってみてはいかが? 立っているのも、億劫なほどですから」


 数瞬後。
「セト! おい、セト!」
 アテムが歩く睡蓮に追い付いたのは、彼が走り出してから大して経ちもしない内だった。アイシスの服が立つも疲れるほど重いと同様、セトの衣装も機敏な動きとは一切無縁となるようなものなのだ。
「追い付いたぞ。出迎えに来たのなら、あそこで待っていてくれればよかったではないか」
 はぁ、と息をついた――大して経ちもしない内とはいえ、結構な距離を彼は走った――アテムに、セトは目もくれなかった。
「出迎えに、来たのならば、で御座いましょう。私はただそういえば王とはどんな顔の御方だったかと確かめに参っただけでしたので」
 一度見て思い出せばもう充分。そう言わんばかりに、セトは前を向いたまま路を進んだ。とても、ゆっくりと。
「帰りが遅れたのは悪かった。まさかお前が待っているとは……。ああ、待て、輿を呼ぼう。話はそれからだ」
 アテムは来た道を少し戻り人を走らせた。先程老宰相が呼んだ輿は一人用のものであったが、今度彼が呼ばせたのは籠付きの二人輿である。準備には僅かばかり時間を要し、その間、王は幾らかの言いわけを並べ、セトは黙ってそれを聞いた。
「だから、な。言う通り、羽目を外し過ぎたことは認めるが、こちらとしても自棄だったのだ。お前が怒るとは思っても見なかった。お前は、かえって清々したとでも言うのかと思っていた。何分始まりがああだ。――言っておくが、あれを、一つも悪かったと思っていないわけではないぞ。ただ、お前が、あまりにも」
 輿と担ぎ手たちが到着した。欠片も気に掛けず話し続けようとするアテムを、そこで初めてセトが止めた。
「もう結構。仰りたいことは分かり申した。それに、私からも一つ言わねばなりませぬ。私は、何も貴方様の過ぎた遊興ばかりに怒っているのではないということを」
「何?」
 手を取られて籠の内に入る。重い衣装をどうにか捌きながら腰を落ち着けると、セトはアテムの疑問に答えるべく口を開いた。
「ケタの軍勢には圧勝であったと聞き及びましたが」
「あ? ああ、そうだ」
「季節と戦地から考えて、ケタに後方軍が残っていたとは、私には思えませんでしたが」
「あ、ああ。だろうな、向こうは今頃収穫期の初めだろう。軍に回す男手は足りない筈だ」
「でしたら。それを解っておられたのでしたら、何故追いませんでしたか。先代ファラオが失った土地を、取り返そうとなさいませんでしたか」
 華美な目墨で表情を隠し、セトは王を詰問した。
 追うべきだと、思っていた。アイシスはすぐに戻るべきだと言っていた。外政と内政のどちらに重きを置くか。それは難しい問題だ。だが、どちらもを軽んじるなど決してあるべきではないのだ。
「ファラオ。二国の王。両冠の主。貴方がしたことは冒涜です。国家のため流れた血への」
 セトの語尾が、少し掠れた。最後まで言い切れたものかどうかも、セトには自信が無かった。国家安泰の礎となった小石たち。たかが石ころと思えど、お前たちはこの手に重い。
「セト」
 アテムの手が白い頬に向かって伸びた。
「悪かった。どうすれば許してくれる」
 問うた王に対し、セトが小さくかぶりを振る。身に着けた装飾がきゃらきゃらと清かな音を立てた。
「私に許されようと思わぬことです」
 私をではなく。セトは二度繰り返した。私をではなく。
「王座と国土、その上に立つ揺るぎ無き王権を、大切になさいませ」
「――――」
 アテムは何ごとか言おうとしてやめ、それから、もう一度、意を決したように口を開いた。セトが何を言いたいのか解るほどには、らしくなくとも彼は王だった。
「つまり、お前もこう言うんだな。世継ぎを作れ、何をするにもまずはそれからだ、と」
 シモンが何度も言い、先のアイシスがあと回しにしたのもこのことである筈の、アテムには厄介な話である。こればかりは、彼も憐れなのかもしれなかった。
「正しくは世継ぎのことのみを言うのではありませんが。それも、一つです」
 セトの声はもう感情の無い平坦な声に戻っていた。冷静に、或いは冷たく聞こえるそれに、アテムが眉を寄せる。眉を寄せ、しかし不平ではなく了承の意を、彼は示した。
「お前にまで言われては否とも言えん」
「私のおらぬ地で羽を伸ばしていた方がよく仰る」
 その時、静かに輿が下ろされた。幕越しに担ぎ手が王宮への到着を告げる。アテムはさっと籠を出ると、セトの細った腕を引き、彼をも外へ引き摺り出した。
「何をなさいます。私の館はまだ先ではありませんか」
「お前が悪い」
 王宮の、というよりも王の私室の前で、輿は下ろされていた。無論そうするように言い付けたのは輿を呼んだアテムである。彼は部屋の戸を開けると、まだ頭を垂れている担ぎ手など意に介さず、その中へセトを押し込んだ。
「何を、ぁ、っ」
 床に押し倒され、セトは小さく息を詰めた。装飾が幾つか弾け飛んだ。
「っ、分かって下さったのではなかったのですかっ」
「世継ぎのことなら明日からそうする。だが、今日は、お前が悪い。そんな格好でいるからだ」
「格好というならアイシスとて――」
「確かに着飾っていたが、あいつのは説教のための服だろう」
 薄い身体の上に乗り上げ、アテムはセトの顔を覗き込んだ。鼻の先が触れ合う。それは『セン』といい、タァウイにおいて愛を示す第一級の行為であった。
「やはりお前がいいな。ペルソプドゥの女どもの甘い声や態度に心惹かれなかったと言えば嘘になるが、やはり、帰ってきてみればお前が一番いい」
 今度は唇が触れ合った。そして頬、額、再び鼻。一月半振りの逢瀬は、常に無く甘やかな調子で始まった。久しく無かった行為は、自ら慰める箇所を持たないセトを、あっという間に追い上げる。セトの様子はしだいに我を失い身も世も無くすほどになり、それは王をいたく喜ばせた。
 だが、褐色の肉体の下で喘ぎながら、彼はその心臓に問う。

 石ころたちよ。これで良いか。これで、私は間違っていないか。このような手段であったとしても、我がマアトはまだそなたらの見そなわすところにあるか。礎となったそなたらに、報いているか――

 答は返らない。それから丸一日、老宰相が凱旋の儀の準備を口実に助け出すまでを、セトは年若い王の体力に翻弄されて過ごした。


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セペデト:所謂シリウス星。
セン:他地域で言う「キスする」に当たる。