セネト・パピルス 26
2009/12/12


「まったく貴方様という方は、何をするにも限度というものをお知りにならない」
 見かねたシモンが王の部屋へ踏み込んだ時、アテムはまだその力を有り余らせていた。対してセトの方は解放されても自ら起きることができぬといった具合だったが、ともかく、二人を老爺は引き離したのだった。
 口実とした凱旋の儀は、そんなもの実のところは明日でも良かったのだが、このあと夕べから行われる。身を清めた王は、早くもそのための祭事冠を被っていた。
「煩いぞシモン。今は説教など聞きたくない」
「誰がさせているとお思いです」
 それは間違い無くアテムなのだが、彼はふんと鼻を鳴らしただけで答えなかった。彼は不機嫌なのだ。逢瀬を中断されたからではない。今晩の、数時間後のことを思って不満を膨らませている。
 アテムの強さに付いてこられなかったセトは、今頃侍女の介抱を受けているだろう。彼には一晩安静にして休むようにと、シモンの呼んだ医者の診断が下っている。それはいいのだ。それはいい、だが。
 ならばちょうどよう御座いましたな。
 アテムの耳に、セトの呟きが蘇った。自分は相手をできないから今晩は王妃のもとへ行け、と、そう言うのだ。確かに明日からそうすると言ったことであるが、それがアテムには不服である。
「王ともあろう方の態度とは思えませんな。セトとて貴方様を気遣ってこそああ言ったのでしょうに」
「何が気遣いだ。誰がそんなものを求めた」
「求められずともせんではいられぬのが真に貴方様を想うものですぞ」
 或いは国家を想うものであるが、敢えて、シモンは後者の可能性を伏せた。この老爺にセトの真意を知る由も無いが、ただ国家のためのみなどと言っては、真にそうであった場合セトの思惑を潰すことになる。それに、前者であると、彼には思いたい気持ちもあった。
 いかに無茶ばかりする酷き王であったとしても、アテムは、乳飲み子の折より彼が教え育てた、息子か孫かのような存在なのだ。その孤独よりは、マアトにそぐわぬものであったとしても、幸福を願うのが人の心である。
 少しばかり機嫌を直したアテムに、老宰相は再度、その地位に就くものとして、畳み掛けた。
「一晩。たった一晩のことではありませんか。それでセトもアイシスも楽になりましょう。今のままでは二人も憐れと思し召しを。王に子の無きことを、あの二人がなんと言って責められていると存じます」


 数刻後、王宮の仮居の間。
「お目覚めにおなり遊ばしましたか」
 薄っすらと細く開かれたセトの目を見、扇持ちの女が彼に声を掛けた。セトと同年か僅かに上かの彼女は、神殿勤めの頃からの忠のものである。扇持ちが彼女であることにセトは安堵の息を吐いた。
「私はどれくらい眠っていた?」
「四時間ほどで御座います。もうじき凱旋の儀が始まりますが」
 いかがなさいますか。問うた女の声には自愛を求める節があったが、セトは構わず上体を起こし休息を打ち切った。
「準備を。私が出なくては民がおかしく思うだろう」
「……承知致しました」
 儀式用の衣装を揃えるべく、女は先程までセトに風を送っていた駝鳥の羽を置き立ち上がった。戸の前で一礼し部屋を出る。
 その背を見送り、ふと窓の外を見て、セトは嘆息した。
「この部屋だったか」
 四角い窓からは静かに佇む二つの館が見える。さよう、そこはセトが先のシェムウ二月近くを過ごした場所、宦官となり己の決意を固めた場所であった。


「王宮神官セト・カスト・ヌブティ公の御成り!」
 先触れの声に、アテムは目を丸くした。休んでいるのではなかったのか? 困惑の内に、大貴族にして高位神官の輿はその身分に相応しい位置に据えられた。籠の無い輿である。前日よりは格段に簡素だが神式にそぐう、男ものの出で立ちをした姿が、人々の目に映った。
 凱旋の儀はアメン=ラァ大神殿の主導で行われる。此度の勝利はアメン=ラァのご加護があってこそと感謝を『目に見える』形で捧げ、大神殿の石造りの腹を肥えさす。悪し様に言えばそういう儀式なのだ。古い時代にはそうでなかった筈だが、いつからか、それだけのものに成り下がっていた。
 そしてそれ故に現在王宮の神官であるセトはこの儀に直接の関わりを持たない。しかし、人々の注目は、確かに、彼の上にあった。
 真白い肌のヌブトびと。何度と無くその身体を暴いたアテムは忘れ掛けていたことだが、彼の素肌は人々の目に奇異である。セトの登場は、ヌブトの白がもはや災いで無いことを改めて触れ回る、示威行為に他ならなかった。
 白い肌、青い瞳、ヌブトの地で公たる血筋。かつて災いと呼ばれたそれらが、今や権勢の象徴なのだ。王家の娘を妻に持ち、王に次いで王座に近い立場にある、厳格な為政者。
 真実ではない。だが、民の目にはそう見える。善良な民衆の視線は、凱旋の儀の間中、ひたすらセトの許に集められた。
 そして建前上は神聖なる儀式が終わったのち、人の宴の時間。偽りの鍍金はそこで剥がれるのだ。
「どうぞ、お花を」
 籠一杯の小さな花束を配る女官から、セトは睡蓮の束を受け取った。宴の花は相変わらず睡蓮である。しかし彼は以前のようにはそれに文句を付けなかった。花は酔いで気分を害した時のために用意されているが、たとえ酒に依らないものでも、芳しくない具合を抑えるのに、清廉な芳香というのは良く効くのだ。
 今、セトは花を頼りに気を保っている。民の前で張れた虚勢も、この王宮の中の宴には持ち越せない。貴族ばかりの集まりで事情を知らぬものなどいないのだから、持ち越す意味も無いのだが。
 場は円形に設けられ、王と王妃を起点に、家柄と階級の順に皆の席が定められた。アメン=ラァの神官たちは大神殿へ帰ったため、参加者は王宮において、或いは地方で、位を持つものに限られている。王の隣にヌブト公夫妻、王妃の隣にケメヌ公とその同族である大宰相。その次にはジェドゥ公、ベヘデト公が順当であるが、二公家とも州の祭事と折り合いが付かずウアセトへ来ること叶わなかったため、そこから先は諸侯家のもので占められた。家の当主もおれば地伯として州の一部を預かるもの、地方の神々に仕えるもの、それらの過客に食客まで、顔触れは様々である。
 セトは葦の涼やかな敷物の上に座り、彼らの顔を一度ずつ確かめるように見た。
 三十三。
 上座を抜いて、それだけの参加者がいる。中にはタァウイ人にしては白い皮膚のものもいた。多分、沿岸居留区と呼ばれる、扇状地の先の先、緑海に浮かぶささやかな土地のものたちだろう。異国から来た商人たちの住む地域だ。どこかの州のお抱え貿易商か何かに違いない。
 セトが彼らを見終えたとほぼ同時に、女官がやってきて、身体を支えるにちょうど良い高さの腕持たせを差し出した。受け取り、半ば身体を投げ出すような形に座り直す。それぞれに酒も回り、竪琴引きの音に合わせて踊り出すものも見え始めたが、セトにはただ宴のざわめきを眺めるのすら大儀であった。
「なんだ、凱旋の儀に出てきたから驚いたが、まだ辛いのか」
 セトの上に声が降った。アテムの声である。先夜を一睡もしていないことが嘘のように元気な彼は、胡坐を組み替えながらそう問うた。
「花が手放せません程度には」
 応えに、アテムは首を竦める。そうまでかと、若く雄羊のように精力的な王には不思議であるのだろう。
「案外、一曲ほど踊ってみれば気分も良くなるんじゃないか? どうだ、セト、次辺り」
 座の中央で歌い踊る人々をアテムが指差した。後ろに控える楽団が曲を奏でているが、それは今にも収束しようとしている。
「これ以上無体なことを仰いますな」
 緩く頭を振って、セトは王の申し出を断った。冗談だ、と、軽い調子で返してアテムが立ち上がる。
「さすがにお前に相手をしろとは言わないさ。アイシス……も、無理か? 相変わらず凄まじい服だな。おい、マナ! 踊らないか」
 アテムはセトの向こう他家の侯子と話していた娘に呼び掛けた。王子時代からの、気安い友への呼び掛けだ。だが、振り返った彼女の心は、必ずしも友のそれではなかった。
「ファラオとですか?」
 マナがちらりと、王の横に侍る夫の顔を見る。表情を窺うよりも早く、アテムの手が伸びてきた。
「セトのことは気にするな、具合が悪く踊る気にもならないんだと。ほら、こっちへ来い。王がかく命じる」
 現人神に手を引かれ、マナは宴席の中央一段高く作られた舞台へと足を踏み入れた。竪琴弾きの乙女たちが二人を囃し立てる。
「メリィ・イ・セシェン!」
 王が声を張り上げ曲名を叫び、乙女たちがそれに答えた。澄んだ、それ故に物悲しい旋律が、彼女らの手許で生まれては去っていく。おお睡蓮の花よ、我が愛しのセシェン、原初の水より生まれ――。詩が歌われ出し、マナは促されるまま王に身を任せた。
 けれども、この甘く切ない音楽は、誰のために奏でられているのだろう? メリィ・イ・セシェン。余は睡蓮を愛す。青く、神聖な、太陽の鼻先で咲く、この国一美しい花を愛でる王に尋ねたい。マナは心で囁いた。
 気にするなとは、己の夫の機嫌をか、王の寝台の妻の機嫌をか?
 だが、それがどちらであれ、マナは既に決意している。


 夜の二時間が過ぎると、宴は散会の様相を見せ出した。老年のもののいた場所を中心に空席が目立つようになり、また酔い潰れ花の世話になるものも増えている。
「そろそろ終わりとするか」
 アテムが女官を呼び付け終宴を指示する。それが済むと、上座は途端に慌しくなった。下座の人々にはまだ残って飲み続ける気のものも多いが、ある程度身分のあるものたちは、彼らの気兼ね無い会話のため皆揃って退散するのだ。
「あぁ、そうでしたわ、ファラオ」
 退出のさなか、アイシス・アメン=ヘテプが王を呼び止めた。
「話があります。昨日、あとでと言った、そのことで。どこかで話を聞いて下さると良いのですが」
 アテムは腰を上げ掛けた姿勢のまま、数秒考え、なら、と答えた。
「お前の部屋で聞こう。王妃宮で。こちらも少し、話がある」
 そうして、王と王妃は珍しくも連れ立ち、部屋を出て行った。続いてヌブト公夫妻が、こちらは別々に、帰路へ着く。
 セトは、館へ戻ると美しく設えられた寝台の上にその身を横たえた。一晩安静にと命じられているほど疲労しているのだ。本来、凱旋の儀にも宴にも出るべきではなかった。
 無理を押した身体は、彼が目を閉じてすぐに眠りの淵へと沈んだ。夢すらも見ず、一刻が過ぎた。
 そして彼は目覚めた。昼に、足りぬとはいえ休息を取っていたからだろうか。まだ真夜中だというのに、もう一度眠る気にもなれず彼は暗い庭園に出た。アケトとはいえ夜は幾分も肌寒いものだが、弱く吹く風をセトは心地好いと思う。薔薇の茂みの傍へ置かれた長椅子に座り、彼は樹木の壁の向こう、各館から館への行き来を容易にしている、四館の庭の区切りでもある小道に目を向けた。
 時を見計らったのではないが、ちょうど、王妃宮の庭から小道へ、角灯の火をちらつかせながら出てくる人影があった。灯りは小さく、その人影が誰なのか判別できるほどではない。だが、恐らくそれはアテム・アメン=ヘテプだろう。小道を使う人間は限られているし、何よりこのような時間に王妃宮から出てきたとなれば他に答は無い。
 アテムの側からセトは見えていないのだろう。王は樹木越しにセトが座る場所を、全く意識した様子無く通り過ぎた。
 否、通り過ぎようとした。
「ファラオ」
 女の声が彼を振り向かせた。アイシスの声では無い。かの王妃の声はもっと落ち着いて低い音だ。
「アイシス様の話を聞いたのなら私の話も聞いて下さい。いいでしょう? ファラオ」
 高く、響くような声。マナだった。王が通るのを待っていたのか偶然部屋から見えたのか、判らないが、偶然だとすれば、三者とも、あり得ないほどに運が悪かった。
「話か。何の話だ?」
 アテムの問いに、マナが一緒ですと囁く。
「一緒です。アイシス様と一緒。でも、アイシス様は国家のために、私は私のためにそれを話すの」
 草木の幕を隔て、彼女の言葉がセトにも聞こえる。良くない予感にセトは立ち上がろうとし、自分の足が凍り付いたように動かないことに気が付いた。いや、足だけではない。全身が底冷えし、舌すらも動かなかった。次にマナが何を言うのか、勘付いていたにも関わらず。勘付いていたからこそ。
「私だっていつまでも石女でいたくないわ。けどセト様はああだもの。身分の低い人たちは王家の子の父になるのに臆病で、だから……」
 空白があった。誰も、何の言葉も発しない空白の時間が、数秒か、或いはもっと長い時間、続いた。
 ふと誰のものか判らない吐息の音が漏れる。角灯が、地面に置かれた。


第三章 メリィ・イ・セシェン (中編) 終


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沿岸居留区:下エジプト北端の、緑海(地中海)に面した地域。浮島など不安定な土地が含まれる。