セネト・パピルス 27
2009/12/30


 アテム・アンジェティはこの晩、三人の『王座を持つ家のもの』にそれぞれ種を植え付けた。ベヘデトの女に世継ぎの種を、ケメヌの女に不義の子の種を、ヌブトのそれには不信の種を。
 種が芽を出すのはまだ先の話である。だが、先とは、そう遠くない時を指すのだ。


第三章 メリィ・イ・セシェン (後編)


 凱旋の儀から二月と少し。二人の王座の女が、ともに懐妊している。その報せが夫たちに届けられた時、驚いたのは彼ら自身ではなかった。その時アテムとセトは王の間におり、重大ではない政策の幾つかを大宰相とともに取り纏めているところだったが、驚いたのはシモンである。
「懐妊、ですと。いや、アイシスのことは純粋に目出度い。しかし、マナが、とは?」
 あり得ぬ筈のことである。セトは単なる名目上の夫でしかない。それも、夫の役を果たせぬよう念を入れて宛がわれた、だ。医師からの使いが去るとシモンは混乱を隠せぬままセトを見た。
「ファラオの御子です」
 セトが事実を述べる。老人は泡を吹いた。
「な、な、いや、しかし。まさか」
 シモンの目が白黒する。王のセトへの傾倒振りは、彼も知るところであるのだ。まさかと言い辛そうに切られた先は、それを引いて疑いを述べるものだろう。まさか、そなたがいながらして、と。
「私のことなど、ただ少し後宮へ毛色の変わったのを入れてみたかっただけに御座いましょう」
 目化粧の奥からセトは王へと冷えた視線を投げ掛けた。シモンの疑問に答えた言葉だが、王を非難するものなのは明白である。アテムは口を曲げ眉を寄せた。
「マナのこと、知っていたのか」
「知らぬと思いましたか」
 ああ、とも、いや、とも、アテムは返さなかった。知られていないつもりだったのだろうが、隠し通せるとも思っていなかっただろう。彼は額に手をやり、視線を斜めにさ迷わせた。
「その――子が欲しいから、他に相手もいないから、と――断れるものじゃなかった、自分が原因となると、つい、後ろ暗く――」
 言いわけだ。老宰相が溜息を吐き、セトは、全く何の感情も浮かんでいない顔で、王座に座る男を見た。
「では、我が身は何故にこのようなものになったと?」
 詰問の声にも、色は無かった。このようなものに。宦官、に。将来の王位継承順に禍根を残さぬため、王家の血統を一筋に定めるためではなかったのか。王家の姫に、余計な子が出来ぬようにではなかったのか。それを何故、当の王が。
「私を馬鹿になさるもほどがある」
 呟くように言って、セトは王の間を辞した。呼び止める声が聞こえたが、振り返らなかった。


「私の子か?」
 尋ねて、しかしマナの返事を待たず、セトは己でそれはいかような奇跡かと否定した。嫌味を言いに来たのなら帰ってと、マナが鼻に皺を寄せる。
「私は悪いことなんてしてないわ。セト様に私を責める権利があるものですか。ずっと、私以外の人の所有物だったくせに、こんな時だけ夫面しないで!」
 マナが叫んだ。どうにも、この形ばかりの夫婦に、冷静な話し合いというのは無縁のようであった。セトも、辛うじて手は上げぬものの、掴み掛からんばかりの勢いでマナに詰め寄る。
「私はな、そなたの浮気を責めはせぬ。夫がこれでは仕方も無かろうしな。だが、何故――」
 マナの言う通り、セトに、マナの不実を責めることはできない。浮気といっても元より互いの上に心を置いていたわけではないのだ。責める気も、また無かった。
 だが。
 ならば、何が、だが、なのだ? 確かに、今、その接続詞でセトは会話を繋ごうとした筈だ。
 彼は口を噤んだ。間が開く。暫く待ったマナが、訝るように瞬いた。
「――見渡せば砂漠の砂粒ほどもいる男の中から王を相手としたことだけは、唯一ましな選択だったと言ってやろう。だが次は無いものと思え。私ではなく国家が無いものにすると、心得ておけ」
 それだけを口早に言うと、セトはマナから視線を外し、礼も何も無く部屋を出た。自らの館に戻る足は、何ごとでか急いている。小道を横切り己の庭へ入り、一本すらりと立つ柘榴の幹にまるでわざと背を打ち付けるかのごとく凭れかかって、漸くセトは詰めていた息を吐き出した。
 
 ――さっき、自分は何を言おうとした? 妻の浮気でなく何を問いただそうとした? あの時咽喉につかえたものは何であった?

 セトは、無理矢理に、考えるのをやめた。足の力を抜き、その場に座り込んだ。
 柘榴の木の上を一羽の鳩が旋回している。羽音で彼はそれに気付いた。鳩に釣られ上方に視線をやる。西の空には大きな雲が広がっていた。
 ぼんやりとその形を眺めていたセトが、目を閉じ、心を無にしようとする。その時、別なところからばさばさと、鳥の羽ばたきが聞こえてきた。


「こんなところで何をなさっているのです?」
 アイシスが問うた。彼女の周りを二羽の鳩が飛び交っている。先程の羽音は辺りにいた鳩が突如現れた人影に驚いて立てたものだったのだろう。
「何を、とはこちらの科白だ。人の庭へ断りも無しに入ってくるとは」
「あら。わたくしはそこの辻から声を掛けましてよ」
 庭へ入る戸の前方、そこで物音が発せられたなら聞こえぬ筈が無い場所を、アイシスが指差す。
「人の声も聞こえないほど、何をお考えに? まぁ、問うまでも無いのでしょうけれど」
 言いながら、彼女はセトの斜め前、人工池の高くせり出した縁に腰掛けた。身に付けた黄金が水面に光を落とす。
「お前は、まるでいつもの調子なのだな」
 疲れた様子のセトに対し、アイシスは落ち着き払っていた。うろたえるほどのことでもないでしょうと、その言葉が、セトには信じ難い。
「マナはわたくしたちより少し庶民的な夢を見ているだけで、王母への野心を持ってはいない。そして子の父親は王自身。表向きは貴方の子とされるでしょうけど、それはともかく」
 二人の子の性別が異なれば王と王妃それぞれの座に丸く収まり、同じであったとしても、後ろ盾となるものにその気が無ければ継承順に障りが出るほどの力を持てるとは考え難い。
「順当に、表向きの父の所領を継ぐことになるでしょうよ」
「恐らく国家を脅かすことは無い――だから構わないと?」
 ええ、とアイシスは頷いた。その頬には微笑みが浮かんでさえいる。
「お前はそれでいいのか。ことの主眼をマナに置けば子の父が王であるのは不幸中の幸いだが、王を主として見れば、選りにも選ってマナとは、ふざけていると思わないのか」
 国家を、可能性は低いといえども危うくしたのだ。そして何より、既に人の夫であるものとして。セトが問えたことではないのだが、王の正しき妻に、彼はそう尋ねた。アイシスがゆっくりと一度、瞼を開閉する。
「そうですわね……王座に関してはわたくしも全てを許すわけではありませんけれど」
 金色の光が柘榴の葉の合い間をすり抜けた。立ち上がったアイシスが、一歩セトへと近付く。
「けれど、ファラオが後宮に何人の傍女を召抱えようとそれはそれ。わたくしが当代一位の王座の女であるという事実は欠片も揺ぎ無きもの。相手がマナであっても、そのことに変わりはありません」
 彼女の目が天頂を行く太陽に向けられる。輝く日輪は既に赤い。西への移動を始め、ラァの化身とされるものから、王が同じ名を持つ神へと、姿を変えつつある。
「わたくしが愛しているのはアテム・アメン=ヘテプただ一人。アテム・アンジェティは喜んで他の方々に差し上げるわ」
 この毅然とした女は、それを、本心から言っているのだった。
「王座の女とはそういうものです。国のために夫を選び、統治者の才能と婚姻を結ぶもの。今は随分と建前の側面が強くなってしまいましたが――それでも、わたくしは誇り高き王座の女主なのです」
「それが答か」
「ええ。わたくしには構うも構わないも無い。マナに応じたのはアメン=ヘテプではなくアンジェティなのですから」
 息が詰まりそうだと、セトは思う。アイシスが話しているのは王侯貴族にはよくある婚姻の形態だ。政略と恋情を分けるその方式。公たるセトにも理解できぬ筈は無い。だというのに。
 アイシスが視線をセトに戻した。その頬には憐れみの色が浮かんでいる。
「貴方は、そうは思えないのですね。王座を持つ家に生まれながら王座でなく、正しき妻であらざりながら傍女の中に埋もれることもできないお方。誇り高く、なのに何の主にもなれないお方」
 穏やかな声がセトの耳を刺す。
「貴方は、わたくしと同じように考えているものと思いましたのに。少なくとも、あの凱旋の日までは、そうでありませんでしたか。美しく着飾って王の気を引き、それは、アンジェティへの愛がためではなく、アメン=ヘテプの統治者に足りぬ才覚を自ら補うためではありませんでしたか」
 彼女の問いに、セトは答えない。答えられないのだ。もはやセトにも自身の本意は見えていない。
 アメン=ヘテプとアンジェティ。行いによって呼び分けられる、同じ人物。セトに相対しているのはどちらであるのか。横暴で賢しい君主としてその身を奪っておきながら、国家を端に置き愛を歌う青年。彼はアメン=ヘテプなのかアンジェティなのか。それすらも解らない。ただセトは、王座の女よとその身分でアイシスを呼んだ。
「王座の女。国家の女主。お前には解らぬ。己が身の不安定さに怯え焦る心など」
 どちらであったとしても同じことなのだ。アメン=ヘテプは王座の女のものであり、アンジェティもまた。
 アイシスは一瞬目を見開き、沈黙した。セトが足場の危うさを気に掛けているのは以前にも聞いたことだったが、かつて聞いたそれは然程深刻なものではなかった。
 セトがアイシスの考えに賛同できなくなっているのと同様、アイシスもまたセトを理解できなくなっている。二人は、それを思い知った。
「――ええ、解りません。わたくしに解るのは、何にせよ、起きてしまったことはもうどうしようもないということだけです。だからわたくしはマナのこともファラオのことも責めませんし――貴方のことも、そうするのです」


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