セネト・パピルス 28
2010/1/4


 それから、目まぐるしく一季節が過ぎた。播種期ペレトが終わり、撒かれた種は確実にその存在を主張し始めている。この収穫期シェムウの内に、二人の子は生まれるだろう。
 ウアセト城下では日々祝いの言葉が紡がれ、大神殿は生まれる子たちへの祈祷を始めた。王家と公家の二人の子に祝福あれ、アメン=ヘテプと四公家に御栄えあれ。民は知らぬ故に斟酌無く、歓声を響かせる。そして当人たちは。
「気が狂いそうだ」
 セトは自らの館に引き篭もり、王のおとないにさえ門戸を閉ざしている。そうまでしても事情を知らぬ下級官吏や貴族たちから祝辞や祝賀の品が届くのは避けられない。無視するわけにもいかぬからと侍女が受け取り持ちきたったそれらへ、セトは汚れものを見るかのような目を向けた。
「ベス神像、タウレト神像! 安産の祈り神などマナのところにでも送り付けろ!」
 侍女の捧げ持つ供物台から二体の神像とその他の細かなものが叩き落される。磁器のタウレトが割れ、黒檀のベスが滑らかに磨かれた表面に傷を作った。
「あぁ、危のう御座います。お動きにならないで下さい、今片付けますから」
 赤い肌の女が供物台を横に置く。彼女は腰の袋から硬いメヒイトの茎で作った手箒を取り出すと、屈み込みタウレトであったものを掃き集めた。
「陛下からの贈りものも届いておりましたが」
「見たくもない」
「承りました」
 ペレトの間繰り返された会話は、シェムウに入っても変わらなかった。見たくもないと、セトの命にこの女はよく従う。王からの機嫌取りの品――それは時に黄金であり、上等の蜜や乳であったり、珍かな調度品であったが――それがセトの目に触れたことは無い。
 女がごみを捨てに退出し、セトは窓辺に寄り対面の館を見据えた。王の住まいであり国政の場でもあるその館。王宮へ、いつまでも行かぬままではならない。強情も過ぎれば王の寵を失いかねず、そうなった時、政から遠退いていては身の振りようも無いのだ。
 解っている。解っているとも。
 青い瞳がつと窓から逸らされる。大きな溜息が部屋に響いた。黒檀の椅子に座り肘掛に身体を凭せ掛け、セトは目を閉じる。雑念を振り払うのに視界は邪魔だった。機嫌取りの品を全て遠ざけても、この館自体王が建てたものなのだ。壁に咲く青睡蓮の文様、書架に彫られた神への賛歌、全て王の拵えさせたものなのだ。
 解って、いる。王の権力がどれほどのものかは。やらねばならぬことがあるとも思う。ヌブトの公として己が領民の地位を取り戻すこと、王権に組する為政者として国家安泰の礎となったものたちに報いること。王の傍はそのために都合が良い。王の間、或いは王の寝台は。都合が、良い。
 成すべきことがある。だが、それは、自らの誇りを捨ててまでせねばならぬことだろうか?
 風の音と鳥の声の中で彼は考えた。そして、その心が決まるよりも前に、運命が動き出した。


 大宰相シモン・ムーラン・ジェフウティからの遣いがセトの許へやってきたのは、夜も更け始めて暫く経った頃だった。息せき切ってやってきた男が、恐らくおとないが無作法とされぬ時間に間に合わせようとしたものであろうが、かの老人にしては珍しく乱れた筆跡の書簡をセトに渡す。
 受け取り、読みもしない内からセトは眉を顰めた。メフウ紙に繊維の筋が残っているのが指で触れただけでも分かる。このような安物、大宰相ともあろうものが人へ出す手紙に使うものではない。乱雑な字と合わせてみれば余程慌てて紙を選ぶ暇も無く書き付けられたのだと知れるが、いったい何がそうまで老爺を急かせたというのか。少なくとも明日で良い類の用ではなかろう。
 朱で記された書き出しの文字にセトが目を向ける。広げられた両腕の形で、否定の語からそれは始まっていた。ネン・ヘペト・ヘム・ケレドゥイ=フ――王は彼の二子を抱かぬだろう。悲痛な叫びから、それは始まっていた。

    王は彼の二子を抱かぬだろう。
    この晩になって陛下は北の視察を表明なされた。
    身重の王妃を置いて、この時期に、視察へ行くと。
    生まれた赤子の父が不在なら、いったい誰が子を抱き認知できようか――

 翌朝、王宮へ現れたセトをアテムは喜色満面で出迎えた。謀られたかとセトが思ったのは、しかし一瞬である。
「おお、神官セトよ」
 書簡をしたためていた時よりは冷静になったようであるがまだ幾分取り乱した様子の、宰相が彼に助けを求めた。それに、アテムが顔を顰めたのだ。
「おお、なんと久しき顔を見ることか。こうして現れたからには、そなたもファラオのご意向には反対の筈。そなたからも何か言って差し上げてはくれぬか」
 言うべき言葉は、無論、用意してきていた。北へ、何故この時期なのか。今タァウイは収穫期であり、北の国々は農閑期である。もしもまた戦いになれば、動員できる人手の数からも不利は明らかなのだ。そのような時に王自ら敵国を刺激する真似をするなど得策ではない。負け戦となるだけならまだ良いが、王の身に万が一のことであればどうなるか。王子か王女か、子はいまだ母の腹の中にいて、父の認知を受けていないのだ。それがために王権の継承者と認めぬものも出るだろう。国家は混乱する。それだけの危険を冒して北へ行くことに、いったいなんの意義があるのか。まずはその目的を聞かねばならない。
 臣下の口調で、臣下として、セトは詰問した。王座の男が言い淀むように口元を押さえる。
「然るべき目的がおありなのでしたら一様に止めも致しません」
 なおも、王は口を噤んだ。言えぬようなことか。ならば行かすわけにはいかない。
「北の視察。北の、で御座いますか。先頃のペルソプドゥでは随分お楽しみになられたと聞きますが、まさか然様な乱痴気騒ぎが恋しくなったなどと仰るのではありますまいな」
 違う、と、アテムは即座に否定した。慌てたのか、声には威厳も何も無い。ごほんと一つ、彼は咳払いをした。
「そればかりは無い。帰ってきたその日に言ったろう、あれは少し自棄になっていただけだと。嫌がるお前がいるのにどうしてまた再びなど言うものか」
「その舌の根も乾かぬ内にマナへ手を出したのはどなたです」
「あれは」
 アテムが言葉を切る。言い惑うように、彼は文頭を繰り返した。
「あれは――意味合いが違うだろう。お前を怒らせたのに変わりはないが、浮ついた気でやったことでは。お前が出て来なくなったこの一季節、この身がどれほど清い生活を送ったと思う」
「存じません。存じたくもありません」
 まだ怒っているのだと、セトはその態度を崩さない。
「私が知りたいのは貴方様が何を思ってかような時期に北へなどと言い出したのかです。御子もこのシェムウの末には生まれる筈。それを待てばこちらも農閑期、何故その時ではならぬのかです」
 戻された話の筋に、王は観念して答えた。
「お前の言うようにしよう。ことはアイシスの子が生まれてから。二国の継ぎ手が生まれてからだ」
 行く目的は話さなかったが、セトも宰相も、更に聞くことはしなかった。宰相にしてみれば時期を見た行軍は大エジプトの力を見せ付ける良き政策であるし、セトもそれに文句は無い。
 だが、セトには聞かぬ所以がまだあった。彼は恐れている。王の言葉を、それに揺らされる自らの心臓の深き箇所を。
 彼は薄らと自覚しつつあったが、彼の中で国家と誇りを乗せた天秤の傾きが変わる時、そこには常に王の言葉が存在したのだ。


 女たちの腹は日に日に迫り出し、予定よりも一月余り早く、二人の王子が産み落とされた。収穫期シェムウの第三月第三週の始め。王妃に出産の兆候が訪れた数分後、釣られるようにして公妃のそれも始まり、同日の内に、二人ともがその大仕事を終えてみせた。
 二人の王子はほぼ同時に、別な部屋で生まれ、そして各々の母によって同じ名を与えられた。それは全くの偶然だったが、ユギ――分解すればジュ=グ=イ、永遠なる二つの王座を暗示するその名は、上下二国の継ぎ手である子にも、王座の資格を持つ二公家の血を引く子にも、相応しい。
 王子たちは、片や王妃宮の窓から、片や公妃宮の窓から、父に抱かれ民との対面を果たした。
 父に。しかし二人のユギの内の一人公妃の子を抱いたのは、そのまことの父ではなく、セト・ヌブティである。
「永遠なる二つの王座。王の息子、そして不義の子」
 ユギ・アンプ・アンプ。露台から部屋へ戻り民の目が無くなると、セトはそう呟いた。タァウイの言葉で王の息子はアンプと発音する。そしてアンプとはまた神の名でもあった。神たるセトの妻が神々の王ウシルと交わって設けた不義の子の名を、アンプという。
「この偶然をなんと呼ぼう。この呪いがましき偶然を」
「歴史の再現とでも呼べばいかかです?」
 言って、マナがセトの腕から赤子を奪った。二つの意味でアンプのユギが、突然の移動に驚いたのか小さな手足をばたつかせる。
「神々の時代の再現と? 自らの犯した過ちを悔い、同じ過ちを犯そうとする人を正しき道に導きもしないのならば、神とはなんと無価値なものか」
 いっそ神などこの地上にはいないのだと考えた方がまだ納得がいく。いかに頼ったところで、神がこの地上の出来事に感知することなどないのだと、そう考える方がまだ。
 出掛かった不信心の言葉を飲み込みセトが公妃館を出る。少し落ち着くべきだと、一人になるべきだと、思って彼は庭に歩を進めた。
 だが、一刻には幾分足りない時間をそこで過ごし、居館に帰ったあとも、神への疑念はセトの心臓に染み付いて消えなかった。
 神が地上に現れるというのなら。ならば、我が身は何故にかようであるのか。我が族の神は、策謀と闘争の司である我が神は、何故に私に力を貸さぬのか。国家の神アメン=ラァは、王権の守護者とされるかの神は、何故王国のこの現状を許すのか。そも、正義真理の女神マアトは何故、我々に対し沈黙を続けるのか?
 セトの疑問に、答えるものはいない。


 二人の王子が生まれて間も無く、王の軍隊が北へ向かった。軍隊といってもそれは僅かな近衛と賑やかしの楽団などで構成された見せ掛けだけのものであったが、ケタの侵攻に怯え暮らす民らに活気を与えるには充分と言えよう。
 実際の戦はしない、しかし外からは大軍に見えるように。何か民の慰みになるようなものを連れて。
 この案を言い出したのはアイシスである。セトはケタに奪われた属国を取り返すべきと訴え、シモンもまた好戦的な新ケメヌ公の意向を受けセトと同じ主張をしたが、王は彼女の意見を聞き入れた。
 理由は、ことが終わってののちには明白となる。王が北の視察へ言った時、彼の目的は、実際視察でなかったのだ。
 王の目的が何であれ、ウアセトに残ったものたちが残ったものたちで王と別な時を過ごしたのに違いはない。王の不在の間、その王妃は王座の守として政にも関わった。公家に生まれた子が男児であったことは、やはり一定の問題をもたらしたのだ。気が早くも次期王について派閥割れを起こそうとする官僚たちを抑え、彼女はよく立ち回り、国家の安定に努めた。
 セトとマナは、相も変わらず不仲であったが、子の存在がそれに拍車を掛けていた。セトが自らの子でないアンプのユギを疎んだのではない。長らく妻を持たぬ身であったのを思えば意外にも、セトは子供というものを好いている。
 だから、セトは疎んだのではなく、疎まれたのだった。我が子でないと分かり切っている不義の子をあやす姿は、その妻から見ればどれほどに不気味であろうか。
 子に罪は無い。そうは言っても、常日頃激しい気性のものが――セトの気性が激しいのは元来の性格のみに起因するのではなく凡そ全ての宦官に共通する病のようなものであるのだが――そのような考えを持っているなど、傍目には信じ難いことだ。
 そうしてマナに疎まれ、官僚たちの派閥争いに巻き込まれる形でアイシスとも疎遠になり、セトと女たちとの距離が一層開いた頃、王は帰還した。


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収穫期シェムウの第三月第三週の始め:現代日本の暦でおよそ六月四日。