セネト・パピルス 29
2010/2/8


 再び凱旋の儀が開かれ、先のそれよりは小さな規模ではあったものの、また宴も催された。この度の参加者は王都の貴族や神官たちが大半だったが、貴族であり神官でもあるセトはその中に入っていない。彼は、体調が思わしくないという建前で、館に戻っていた。
「お行きにならなくて良かったのですか」
 早々に帰ってきたセトから儀式用の外套と帽子を受け取り、彼の侍女はそう問うた。
「あんなもの、行ったところで。お前は、私が、私には抱くことも許されぬ子への賛辞を聞かされるのを望むのか? 『賢そうな口元だ、お父上のように立派になられるのでしょうな』――知らぬとは恐ろしいものだ。その父に似るならば、とんだ暗愚の王子となるだろうに」
「差し出がましいことをお聞きしました」
 女が頭を垂れる。良いのだと、セトは彼女に顔を上げさせた。
「何か食べるものを持ってきてくれ。少し食べたら私は休む。今宵、いや、明日も、私は体調不良だ」
「畏まりました。すぐさま、用意致します」
 王宮の宴は今晩の内に終わる。明日になれば王妃は彼女が守り通した王座を王に返し、王はそれに座って政を成すだろう。だが、明日はまだ、帰還を祝う様相が強い筈だ。我が子をろくに見ぬまま視察へ向かった王を労わり、世継ぎ誕生への遅い祝辞を述べるものがあとを絶たないと、容易に予測できる。
 その場にいたくないと、セトは思った。その場にいて、冷静を保てる気がしなかった。
 運ばれてきたパンや豆と肉の煮たのを食すと、セトは眠る気も無いのに寝室へ引き上げた。書架から一巻きのメフウ紙を取り出す。それは、セトが以前神殿勤めなりし頃に纏めた、王家の系譜であった。
 いや、取り取りの顔料を使い美事な装丁で仕上げられた系譜は大神殿に収められたのだから、正確にはその習作である。黒一色で書かれ、挿画も何も無く、しかし美しい構成故に読み辛さを感じさせないその書。王家の系譜は、神々の時代、始まりの王プタハによる万物創造の時から綴られていた。
 プタハ、ラァ、シュウにゲブ。読み下すセトの目が、その次で留まる。ゲブの四人の子供たち。王家の息子は王家の娘と婚姻を結び、ウシルはアセトの持つ資格によって王となった。同時にセトはネブト=ハトに拠って王座の継承資格を手にしたという。
 しかしこの二組の夫婦が最初に得た子はネブト=ハトの腹から生まれたアンプ――王となったウシルの子である。それがために王座を取り巻く争いは起こった。系譜には、その混沌の時代も記録されている。
 今この時代も、過ぎて暫くすれば神々の時代同様ただの客観的な記録として残されるのだろうか? アテム・アメン=ヘテプ、治世年間何年、治世二年のシェムウに正しき妻の腹から生まれた子と男妾の妻の腹から生まれた子を得、妻たちは揃って王座の女であったが、内どちらだかかの子が、或いはまた別な子かが、その治世を引き継いだ――。
 王公家の恥もいいところだと、セトはその考えを振り払った。記録された歴史は何枚ものメフウ紙に書き継がれ、或いは石に刻まれ、ある一つのことが成されない限り永久に存在し続けるのだ。ある一つのこと、歴史の意図的な抹消が行われない限り。
 歴史の意図的な抹消は、だが比較的よく行われることである。セトの綴った系譜でも、セトの知る範囲で四人の王が、その存在を無にされている。アメン=ヘテプの前の王朝の、最後の四人。王座を巡る闘争に勝利した現王朝によって消された一時代。ヌブトの最盛期でもあったその時代を、セトは知っていたが、まだヌブトの復権前のこと、知るからといって記せるわけもなかった。アメン=ラァ大神殿の史料からは、彼らの名も事績も全て削り取られていた。
 この時代も消えてしまえばいい。どうせ心臓の重さを裁かれる身、冥界の暮らしのため肉体が地上に生きた証を残す必要も無いのだから。
 セトは巻物を仕舞い直し寝台に入った。細い枕置きに載せられた布の塊を整え、そこに頭を支えさせる。
 僅かしか残っていなかった蜜蝋が尽き、夜の帳が彼を包み込んだ。窓から指す銀の光が、骨の浮き出た足先だけを、微かに照らしている。


 朝が来て天にラァの船が昇り始めると、部屋に差し込む光は銀から金へとその色を変えた。皮膚を焼かれる感覚でセトが目を覚ます。彼は手を打ち鳴らして侍女を呼んだ。
「湯の用意を頼む。王宮へは、昨日も言った通り、まだ具合が悪いと遣いをやるように」
「はい。湯浴み場でしたら既に整っております。遣いは時間を見て向かわせましょう」
「そうか。ならばこの朝は長湯でもするとしよう」
 侍女を下がらせ、セトは一階の端に作られた浴室へ向かった。そこは王侯貴族の家に相応しく何人もの湯の番がともに入れるような広い場であったが、実を言えば、この家に湯の番なるものは存在しない。セトにはヌブトの形質を隠し一人密やかに色粉を落としていた時の習慣が根付いていて、今更、人に身体を洗わせるという行為には馴染めなかったのだ。
 温く張られた湯を掬い上げ頭から被る。今や肌の色粉を落とす必要は無いが、セトはこの時間が好きだった。穏やかに、気を張らず、一人過ごせる静謐の刻。
 だが数分後。静けさを楽しむ間も無く、彼は浴室を出る羽目に陥った。


「朝から湯とは、病人にしては元気だな」
 濡れた髪のまま現れたセトに、アテムがそう言って笑い掛けた。
「まあ、昨日の態度を見れば分かる。どうせ仮病なんだろう」
「気分が悪いのは、嘘では、御座いません」
 具合がというのではなく心理的な意味での気分である。アテムもそれは解っていたのだろう。特に心配するでもなく、それで、と話題を置き換えた。
「お前に土産があるんだ。昨日は渡しそびれてな、慌てて政務の前に持ってきた。さっき来た時にお前の女官に預けたんだが」
 お前が来る頃に持ってこいと言ったのになかなか来ないな。そう零してアテムが立ち上がる。
「土産など……私には必要でないものです」
「そういうな。視察前にも幾らかものを贈ったが、無下にされていたのは知っている。考えてみれば以前贈ったのはどれも財に飽かせただけのものだったからな。今度は、ちゃんと、お前が喜びそうなものを用意したんだ」
「……でしたら、見るくらいは致しますので。お座り下さい」
 今にも廊下へ出て行きそうなアテムを止め、セトは手のひらを打ち合わせた。朝のごとく、侍女が一人部屋へやってくる。
「ファラオが預けものをなさったそうだな。私が部屋へ付く頃にはここに届けられているべきであったともお聞きしたが、何故持ってこない」
「それが――申しわけ御座いません。私どもも不慣れなもので、どうにもお世話に手間取って――」
「世話?」
 セトが侍女からアテムへ視線を移す。
「北から何を持ち帰られたのです」
 不審げなセトの様子にも、セトの合意が無いことに戸惑いを大きくした侍女の様子にも目をくれず、アテムは口を開いた。
「赤子だ。人の、な。人の赤子だ」
 どこか、館の中から、微かな泣き声が聞こえてきた。その音は二人のユギのどちらとも異なる。
「どこで。誰から、取り上げてきたのです」
「取り上げる? 人聞きが悪い、向こうから是非にと言ってきたんだ」
 では神殿裏の余り子か何かだろうか?
 赤子が連れてこられる。セトの予想は半分ほど当たっていた。どことなく北方の印象を与える容姿、その中で瞳の形だけが王に似ている。この赤子は先のケタ討伐で受けた接待の際に王が成した子なのだ。悟って、セトは固形物のような息を飲んだ。
「なんだ、喜ばないのか? お前は子供が好きなようだと聞いていたんだがな」
 アテムが侍女から子を受け取る。
「子が好きなようで、しかしマナに構わせてもらえずいるというから、これは喜ぶと思ったんだが」
「そのようなこと、どなたからお聞きになったのです」
「どなた? 誰だったかな、視察の間、伝令に来た連中たちは皆言っていたぞ。子供相手にはひどく優しい顔をするそうじゃないか」
 男児なのだろう。それらしい装飾の付いたむつきを穿かされた赤子をアテムがセトに差し出す。
「我が目にも見せてくれ。子ならここにいるぞ。それとも、この赤子は可愛くないか」
「いえ……そういうわけでは」
「ならいいだろう」
 胸元に突き出され、反射的にセトが赤子を抱きとめる。柔らかな塊は、大人しく彼の腕に収まった。
「まだ名前が無いんだ。付けてやってくれ」
 セトに赤子を放り出す気配が無いと知るやアテムはそれだけ言い置いて王宮へ帰って行った。政務の前に来たというから、長居をしてはまた老宰相の小言を聞かねばならないと急いだに違いない。侍女も見送りのためと王へ付いて行き、部屋にはセト一人が残された。
 否、一人ではない。セトに抱かれセトを見上げる赤子が、そこにはいる。
 喜ぶと思って連れてきたという。だが、喜んではならないと、セトは思う。喜んではならない。喜ばせようなどとついでのことだ。二人のユギが生まれる前から、王は視察に行きたがっていたではないか。その時からこの赤子を連れて帰ってくるつもりだったのだ。喜ぶだろうからと、だからと連れ帰ったのではない。王の子を、たとえ身分低き母の子だろうと、打ち捨てておくわけにはいかぬから、だから連れ帰ってきたのだ。そして視察中のウアセトの話を聞き、これ幸いと土産にしたに過ぎない。
 喜んではならない。純粋な好意だなどと、間違っても思ってはならない。
 自分に言い聞かせるように、セトは胸の内でそう呟いた。喜んではならない。喜ぶな、今を喜んだところで、あとになって裏切られるのは自分なのだから!
 赤子が意味を成さない声を上げる。小さな手がセトの服を掴み、弱い力で引いた。
「王の子でありながら決して王の子とは名乗れぬお前」
 名の無い子に、セトがそう呼び掛ける。
「王の子でありながら、その母の身分低きが故に、私などに預けられたばかりに、決して王の子とは名乗れぬお前。その運命を憐れんで、お前に運命ナムと名付けよう。お前の生まれし北の、その言葉で!」


「シュメールの響きだわ」
 二日後の庭先でだった。セトとアイシスが同じ時間に庭へ出たのは偶然だ。
「ナム。意味は何だったかしら。確か、運命だったか宿命だったか、そういう類だったと思いますけど」
 それで合っていると答えてセトは近くの長椅子に腰掛けた。アイシスが近付いてきて、彼の足元に赤子を下ろす。
「何の真似だ」
「子供同士、遊ばせませんこと?」
 王の帰還で官僚たちが落ち着いてみると、二人はやはり気安い間柄であった。アイシスは世継ぎ子の母となり、セトは王の隠し子の預かり手となり、この先、王にはともかく国家に蔑ろにされることはないという安堵の所為でもあっただろう。国家自体のことを思えば二人に不安は尽きなかったが、それだとて当面の危機は去ったのだ。
 一度ケタを退け大規模な示威行軍までした以上、近隣諸国の大エジプトに対する畏怖は回復されたと見て問題無い。民の、国家に対する信頼も。アメン=ラァは相変わらず強大であるが、既に世継ぎが確としたならば、この代で解決できずとも次代の王にその脅威を教え込めばいい。
 当面の危機は去った。二人は、そう信じていた。そして実際に、ここで全ては一度停滞した。二人のみならず、王も、マナも、その他の諸貴族も、貴族ならぬ民も、各々がそれなりに満足を得た状態で、穏やかに時が過ぎた。嵐の前の静けさにしては、長い年月だった。
 次にことが動き出した時、十二年が過ぎていた。


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ネブト=ハト:ネフティスの名で知られる女神。
ナム:シュメール語で「運命」の意。