セネト・パピルス 30
2010/2/21


 アテム・アメン=ヘテプの治世十四年の末、三人の王子たちに割礼の儀の話が持ち上がった。
 王公家の男ともあろうものが、いつまでも赤子のごとく母の館に住まい続けるものではない。そろそろ成人の頃合でもある。国政というものに馴染むためにも、王宮に一人の部屋を持つべきではないか。
 そういう声が、近しい臣下たちから寄せられ始めたのである。王子たちの内、二人のユギに関しては全くその通りであったし、ナムに関しては、住まう館こそ母の館ではないが、成人の頃合というのは同じなのだ。どうせならば三人ともにと話が纏まるのは早かった。
「割礼って、痛いのかな」
 王宮へ呼び出され儀式の日取りを教えられたばかりの三人は、それぞれの親の館へ帰る道すがら、庭の小道で不安を囁き合った。
「どうだろうな。けど、ちょっと爪を引っ掛けただけでも痛いんだ。切るってことは」
 ホルサイセ――ホル=サァ=アイシス、アイシスの息子にして王権の継ぎ手――であるユギが身を震わせた。もう一人、アンプのユギも釣られたように肩を竦める。
「嫌だなぁ、なんでこんな儀式があるんだろ。ね、ナムは? 怖くない?」
 黙っていた三人目の王子に、アンプが――再び断り置くが、記述の都合、今後ホルサイセのユギをただユギと、アンプのユギをただアンプと述べる――震えの止まらない様子で声を掛けた。無論、ナムも怖くない筈は無い。自分の身体の一部を切るのだ。それも、刺激に弱いことこの上ない箇所を!
「儀式を取り仕切るのがアメン=ラァの大神官っていうのが良くない。あんな手元の怪しい老人、ボクだってごめんだよ」
「言うなよナム。それこそ、怖いから考えないようにしてたのに」
 大神官は彼ら三人が生まれた時既に老爺であったシモン・ムーラン・ジェフウティと、対して変わらぬ年なのである。おまけに今も大宰相として国家を切り回し王子たちの教育係まで勤めるシモンと違って、精力的でもなんでもない。
「同じ神官ならセトがやってくれたら良かったんだけどな。王宮神官だけど、神官の格式より手先の器用さを優先して欲しいぜ」
 ユギの言葉に他の二人が頷いた。アンプの表向きの父でありナムの養い親であるセトは、病でもないのに自館に篭りがちで、しかし王宮への影響は大きいという不思議な人物なのだが、二人のユギは深く考えない性質で彼に懐いている。
「本当に、セトだったら良かったのにな」
 器用だし、見知った顔だから緊張もしないし。そう続けられる筈だったユギの言葉が庭の戸の開く音で遮られる。向かい合う四館の内の一つ、ヌブト公館の庭に、長い肩衣を着込んだ人影が立っていた。
「私がどうかしましたか、王子」
「セト!」
 ユギが彼の許に駆け寄る。
「今度の儀式の話だ。取り仕切るのが大神官じゃなくてお前だったらって言ってたんだ」
 それだけの説明で、セトは全て理解したらしかった。苦笑を浮かべ三人を見る。
「なぁ、やっぱり痛むのか? お前の時はどうだったんだ?」
「私の時ですか。あとにして思えば大したことでは。たかが少し、皮を、切り取るくらい」
 成年を迎えた男児なら誰でもしていることだと言う。それは確かにセトの言う通りで、王子たちも幾分気を楽にした。
「儀の司に文句があるようですが、ファラオの折も執刀は彼だったとか。どうであったかは、私よりもファラオに聞いてみてはいかがです」
「父上に? けど、それって参考になるのか? だって父上の時ということは、大神官だって今よりずっと若かったんだろう。手元だってしっかりしててさ」
「さて。あまり今と変わらぬ様子だった気もしますが」
 嘘だぁ、と叫んだのはアンプだった。十七、八年は前のことなのだ。当然見抜かれると思っていたのか、セトは何も弁明せずくすくすと小さく笑っている。
「ちぇっ、自分はとっくに済んでるからって」
 ユギが足元の小石を蹴った。行儀の悪さをセトが咎める。この最も高貴である筈の王子は、どういったことか町の子のような振る舞いが得意なのだった。
「全く、良くないところばかり父君に似ておられる」
「なんだよ、あ、そうだ」
 ふと思い出して、ユギは懐の内に手を入れた。数秒ごそごそとやって、それから彼が取り出したのは一枚の小さなメフウ紙だった。
「見ろよこれ、メフウ・ウェジュの新しいの手に入れたんだ。今度こそオレがお前に勝つぞ」
 ユギが得意気に掲げたのは町で流行りの賭け遊びに使う札である。元々は王宮軍部で戦略立案の机上演習に使われていたのが簡略化され遊戯になったもので、家柄なのか軍事に明るいセトは、これが滅法強いのだった。
「おや、新しく仕入れた切り札を私に見せてしまってもいいのですか?」
 あっと声を上げてユギが札を隠した。
「それに、その札、いったいどこで仕入れたものです」
 王宮でも遊ばれはするが、持ち札を賭けたりの行為は品が無いとして慎まれている。何か他のものと交換したというなら、狭い王宮内のこと、王子から賜った品について、噂にならぬ筈は無いのだ。
「薮蛇だなホルサイセ」
 アンプとナムが話題転換に失敗した同胞の背をからかい混じりに数度叩く。
「本当に、似ずともよいところばかり。ファラオも王宮を抜け出すのがお得意ではありましたが」
 セトが溜息を吐く。小言が始まりそうな気配に、ユギは耳を塞いで小道へ舞い戻った。
「王子!」
「父上に儀式のことを聞いてくる! けど、今度絶対、札遊びに付き合えよ!」
 走り出したユギにアンプとナムが続く。小言の前に逃げられて、セトは再び深い溜息を吐いた。
「なんだ、気付かなかったのか」
 その時、セトの背後で快活な声が響いた。振り返ったセトの目に、目映い金の輝きが映る。
「ファラオ」
「ちょうど今来たところだったんだが、声を掛ける間も無く走って行ったな」
 珍しく庭づてでなく館の正門から来たのだろう。既に庭の内へいるアテムにセトが歩み寄った。
「札遊びと言っていたが、何やら全力で相手をしているとか。アイシスがお前を大人気無いと言っていたぞ」
「手を抜くと王子が怒るのですよ。しかし、アイシスにだけは言われたくない。先頃もナムが彼女に大負けを喫して、賭け札代わりに書物の整理を手伝わされていた筈です」
「ああ……あいつも強いからな。マナくらい手を抜いて相手してやればいいのに」
 セトが軽く頬を背け、あれは才能が無いだけでしょうと呟いた。その態度を、アテムが大袈裟に笑い飛ばす。笑いの勢いのまま寄せられたアテムの鼻先を、セトがとどめた。
「外ではおやめに。王子たちも、もう解らぬ年ではありますまい」
「だったら早く部屋に入れてくれ。政務が終わって飛んできたんだぞ」
 勝手なことを。溜息混じりに言いながらも、セトは館に向けて歩き出した。風が吹き、菜園を横切る二人の許に、果樹の甘い香りを届ける。
 長い、凪のようであった日々の、その最後の一日だった。


 翌朝、セトは侍女の戸を叩く音で目を覚ました。気怠い身体を起こすと、隣でアテムも目をこすっている。寝坊して政務の時間を過ぎたかとセトは窓に目をやったが、外はまだ薄暗く、ラァですら寝起きの様相だった。
「何ごとだ」
 戸を隔てて王が問う。
「あぁ、陛下もそこにおわしましたか。急使で御座います。急使の方が、陛下をお探しで御座います。また大宰相様より公様に、疾く王宮へ参れとのお言葉も」
 扉越しにも彼女の慌てた様子が伝わる。急使。その単語に良い覚えは無い。
 セトは寝台を降り亜麻の長衣を羽織った。足元の下帯を拾って王にも着衣を促す。多少皺になっていたが、そんなことを気にしている場合ではなかった。
 急使。どこからの。もし、それが北だったら。
 王宮へ二人が辿り着くと、老宰相や王妃、幾らかの官吏が、既に王の間へ集まっていた。その中央で待ちかねていた使者の男が、王が椅子に座るのも待たず口を開く。普段なら不敬とされる行為も、急使にだけは認められている。誰に止められることも無く彼は口上を述べた。
「上下二国の王に、下つ国第八州ワエムフイアブの使者が申し上げます。――陛下の属国ジャヒがケタに寝返り――シェズの港に、押し入って参りました」
「シェズに? 状況は。まさかジャヒなどに明け渡したのではないだろうな」
 アテムよりも早くセトが問うた。急使の男が床に額づき切れ切れの声を上げる。
「申しわけ御座いません、公様――しかし、ジャヒがとは申しましたが――実体はケタの軍も同然なのです。ジャヒの名で宣戦を布告しただけ――あれは、ケタの兵士です」
 アテムが舌打ちを鳴らす。王座へ向かう彼に、使者は慌てて拝礼をした。


 急使の件で、王宮は日の出もまだだというのに騒々しくなり始めていた。昨日まで王子たちの成人の儀について慶事を喜び合っていたものたちが、皆顰め面で寄り集まっている。
「シェズを取られたということは、紅海を抑えられたと同じことです」
 セトの発言を聞き、その場にいたものは皆、脳内に広域の地図を描いた。タァウイの東にある、南へ続く海。その北先端は緑海へ抜けることなくタァウイ領内に留まっている。シェズとはその北先端の港町のことだ。
「この度はただシェズを奪還するばかりではなく、恐らくはシェズから紅海を通り直接王都へ乗り込んでくるであろうケタ兵を止めることもせねばなりません」
「それは――ヌブトの涸れ谷を護れということじゃな」
 宰相シモンがセトの言葉を言い換えた。タァウイの大地の東側には、荒れた崖や山が連なり、紅海まで直接に漕ぎ出すことは不可能である。逆に言えば紅海からタァウイ本土に乗り込んでくることも難しく、それは天然の要塞も同然だった。
 だが、ただ一箇所、増水期にのみ紅海とタァウイを繋ぐ水路が現れるのだ。上つ国第五州ビクイ、ヌブト公家が治める土地に現れる道である。その州都ヌブトの傍近くまで延びる道は、アケトには有用な交易路となり、かの家が富裕な理由の一つであるのだが、このような時には王都への短路として、最も攻め入られやすい土地となるのだった。
「もっとはっきり申しますならば、此度、我が私兵はヌブトの護りに徹したく存じます。王都の守はベヘデト公及びネケン侯に――つまるところベヘデティ家にお任せしたい」
 セトがアイシスに視線を送った。アイシスもセトを見遣る。いつもならば孔雀石の目墨で大きく丁寧に縁取られている筈の二人の瞳も、この騒ぎでは乱雑に塗り付けた墨に囲われているのみで、それが互いの視線を探りやすくしていた。
「我が生家ベヘデティはそれを良しとするでしょう。――ですが、涸れ谷の方こそ、ヌブト一家で間に合うのですか」
「涸れ谷に、余程大量の兵が、一時に押し寄せて来ぬ限りは」
 セトの目が集まった人々を見回した。目化粧の乱雑さが、彼の視線に凄みを増している。
「下つ国の防衛を下つ国に任せていたのでは、収まるものも収まりますまい。現にシェズを取られここウアセトまで急使を立てる羽目となった」
 人々、特に上つ国の州侯家と関わりのあるものたちを、セトはもう一度見た。
「第一陣はどちらの家が?」
 問い掛けに広間が一瞬静まり返る。それから、何人かが、名乗りを上げた。


<BACK NEXT>

シェズ:地名。現スエズ。下エジプト東側、紅海北端の港町。