セネト・パピルス 31
2010/4/4


 戦局はタァウイ劣勢で半年目を迎えていた。
 ジャヒを足掛かりに攻め入ってきたケタの兵力は、十数年前とは比べものにならぬ高さであった。――と記しては正確性を欠くだろうか。変わったのは、ケタでなくタァウイである。タァウイの方こそが、かつての威光虚しき程に、力を落としていた。
 数ではタァウイが勝っていた。初め、季節はタァウイが農閑期、忌まわしき敵国ケタは農繁期であったのだから、少なくともタァウイでアケトが終わりペレトに差し掛かるまで、そうである筈だった。個々の兵はどちらもそう変わらない。戦略に関しては、策謀の司とも呼ばれるヌブトのセトが軍部へ進言を繰り返していた。前線の士気ならば、本来、王自ら戦場に立ったタァウイの方が勝ってしかるべきだったろう。
 では、何故? 開戦から一季節が過ぎ、二季節目も半ばとなってまだ、有利である筈のタァウイは、ケタを追い返すどころかシェズの地に踏み込めてさえいないのだ。
「戦費が足りませぬ」
 久方振りにヌブトより戻ったセトは、王が不在の王の間へ足を踏み入れるなりそう訴えた。
「我がヌブトはまだ良い。往年の蓄えが尽きることはそうそう御座いませぬ。しかしこれでは他の諸州が持ちますまい。――王都ウアセトの大宰相閣下、シモン・ムーラン・ジェフウティ」
 正式な名称で、セトはシモンを呼んだ。
「王が不在の今、それを判断し国庫を開放するのは、貴方様の役目ではなかったか」
 詰め寄られ老宰相の額に皺が寄る。彼は、周囲を幾らか気にしながら、その場にいるものが皆州侯家のものであると確認し、恐々と口を開いた。
「我が菜料地ジェフウトの神に懸けて、また、我が族の神に懸けて、戦費のため国庫の開放を怠ったことは無い。無い――のじゃ」
「どういうことです。ならば何故、各州へ戦費が行き渡らずいるのです」
「ヌブト公」
 睨み付けられ憐れにも蛇を前にした蛙のごとく縮み上がった老爺とセトの間に、男が一人割って入った。
「あとの話は私からしよう」
 老宰相を幾らか若くしたような風貌の男だった。その顔はセトにも見覚えがある。シモンとは異なりウアセトでの官職を持たぬものであったが、年に何度かは、シモン・ムーランのあとのケメヌ公として王宮に姿を見せていた男だ。
「ヘジュウル・ケメヌ。そなたの家のもののこの怠慢に、何か納得の行く理由が?」
 セトの不遜なもの言いに男が鼻白んだが、しかしそれは一瞬だった。彼はすぐに顔色を直し、アメン=ラァと、王都の神の名を述べた。
「我が族の神に誓って嘘は申さぬ。大宰相に怠慢は無かった。戦費のため、確かに国庫は開かれた。各州に分ける手配もされた。だが」
 ぐるりと、先程シモンがしたように、彼は周囲を見渡した。
「それを、アメン=ラァの大神殿が掠め取ったのだ」
 ケメヌ公はそう言うと口を引き結んだ。大神殿が、掠め取った。セトが絶句する。嘘でないことは、神に誓う言葉が無くとも明らかだった。王の間に集っていた侯や侯子たちの顔付きが、それを証明していた。
「ケタという大敵相手にこうも渡り合えているのはアメン=ラァのご加護あってこそ、それ故アメン=ラァに感謝の供物を途切れさせてはならぬ――これが大神殿の主張だ。こんな馬鹿げた話が、何故この地では通るのだ!」
 一人の侯がそう怒鳴った。アメン=ヘテプの許で肥大した大神殿は、地方の州では思いも寄らぬほど、今や傲慢であった。
「それでも、大宰相様は我らに戦費を用立てして下さろうとしていた。しかし官吏たちが……」
 王宮の官吏にはアメン=ラァの息の掛かったものも多い。王の選ぶ上級官吏ほど、王の族神アメン=ラァを信奉している率も高い。
「ベヘデティは何をしている!」
 堪り兼ねたように、その場にいない家の名をセトが叫んだ。
「なんのために王都の守を任せたと――公はいい、王妃はどこだ」
 すぐさまその場にアイシス・ベヘデティが呼び出された。彼女は疲れた様子で、一枚のメフウ紙をセトに差し出した。
「わたくしがなんの手立ても打たなかったと? 打ちました。けれど、その結果がそれです」
 崩れた行政文字で書かれた文書をセトが読む。王の字だった。
「――大神殿は我が族の神を奉るもの、その申し出にも一理あるものと思われる。戦費の確保は無論、戦勝の祈願も怠らぬよう――」
 アメン=ラァの状態を届け出たものに対する返答であるのは容易に想像が付く。セトは眩暈を感じ顔を片手で覆った。そのまま、暫く無言でいたあと、彼は唐突に口を開いた。
「ペレト二月も終わり、我がヌブトの涸れ谷は再び塞がった。これから手空きとなる私の軍を北へ送るが、今、領地に徴収できる兵が残っているものは」
 二、三の侯がセトに応える。
「その方らは我が船に兵を乗せよ。軍備、食についても、ヌブトの財がそれを購うだろう」


 結局、戦いが収束したのは播種期ペレトも末近くなってのことだった。ペレトの末、二季節もの間不在であった王が帰ったが、凱旋の儀は行われなかった。北での戦果が祝うようなものではなかったからだ。
 タァウイ軍はヌブトからの増援でようようシェズを取り返したが、ジャヒへの影響を回復することは叶わず、実質、北東の覇権をケタに譲ったも同然であったのだ。
 不満は、まず州侯家から現れた。足りぬ戦費で懸命に兵を出した彼らへの報いは、あまりに少なかった。奪還した際のシェズには占領中のケタの置き土産が幾らか残っていて、中には鉄器もあったのだから、祝うような戦果ではなくとも恩賞くらい出せぬ筈は無かったにも関わらず、だ。
 彼らへ渡るべきであった品々は、アメン=ラァ大神殿の石の腹を膨れさせた。宰相や王妃、それにセトが苦言を呈したが、アメン=ラァの神官たちは言葉巧みに王や官吏を丸め込んだ。そもそも神官とは舌で魔術を行うものたちである。彼らの口が巧いのは道理なのだ。
 かつて自らも神殿の神官であったセトにはそれが解る。あの頃既に力を持ち過ぎていたアメン=ラァが、この十数年で、そしてこの戦いで、王座に対しどれほど危険な因子となったことか。それもまた、セトは強く意識していた。
 ウアセトは、長らく、アメン=ラァの気配に浸り続けている。見えざる神、あらゆるところに内包され、全てであるもの。その教義はまさに正しくアメン=ラァの本質を表してるといえよう。王都の民も、アメン=ラァの横暴さを厭いながら、しかしアメン=ラァを捨てようとは思い至らない。
 それ故、戦いが終わり日延べを繰り返していた慶事が漸く行われるとなった時、それを取り仕切るのはやはりアメン=ラァの大神殿であった。
 当初の予定通り――だが王の不在により遅れに遅れた儀式の日程は、一つの狂いを生じさせていた。
 三人の王子が手元の怪しい老人と酷評したアメン=ラァの大神官。彼はペレトの終わりとともに冥界へ下ることとなったのだ。
「大神官が?」
「そうだ」
 驚き問い返したセトに答えたのはヘジュウル・ケメヌである。公として王子たちの儀式を見届けんがため王都に留まっていた彼は、この日、まだ仔細を伏せられていた大神官の件で、セトの館を訪れたのだ。
「なんでも暫く前から既に容態が悪く、このところの務めごとは全て次席神官のヘイシーンが代わって行っていたとか」
 セトが顎に手を当てる。思案に暮れるような様子に、ケメヌ公は黙って彼の言葉を待った。
「私は――、大神殿は以前から力を持ち過ぎではあったが、私は、それと王妃もだが、現王の治世年間にこれほど危うきものになるとは思っていなかった。次代の王にその危険性を刷り込んでおけば、それで間に合うものと」
「然り。そしてそなたや王妃の刷り込みは半ば巧くいっているものと見えた」
 では何故時間切れの時が早まったのか。簡単なことだ。これまでの大神官は、王宮から、民から、富を搾り取るにしても限度というものを弁えていた。しかし彼が倒れてからその任を請け負った次席神官ヘイシーンはそうでない。
「私はあれの補佐官を務めたことがある。言っても十数年は昔のことだが、当時から神職とは思えぬ輩ではあったよ。――ケメヌ公、そなた、私が始めアメン=ラァの神殿神官であったことは知っているな?」
 ヘジュウル・ケメヌが頷いた。まだ彼が州公でなく、ベヘデティのネケンで旅客としていた時代のことだ。アテム・アメン=ヘテプの治世が始まる前、王宮の官吏が大幅に入れ替えられた、その前のことだ。
「王が私を王宮にと望んだ時、大神官以下何名かがそれを渋った。だが、私は今ここにいて、このような身分でいる。何故か? ヘイシーンが言ったからだ」
「……なんと?」
「なれば喜捨を。神の許より去るものと同じ重さの金でもって、神の喪失を埋められよ。と。私は売られたのだ。買う方も買う方だが……ヘイシーンの性があの頃から変わらぬものであるとすれば」
 セトは言い淀んだ。続きを、ヘジュウルがさらった。
「次の大神官位、奴に渡っては現王朝もただでは済まんだろうな」
 二人は幾許かの間黙り込んだ。セトはヘジュウル・ケメヌをじっと眺めた。
 老宰相シモンのあとのケメヌ公。王座に連なる家のもの。彼はシモンを幾らか若くしたような風貌であったが、更に彼自体が若返ったならば王に、そして王子に、似ているのではないかと思えるような顔かたちでもあった。現王の母の家はアンジェティであり現王妃はベヘデティだが、十数年前まで王都から排斥されていたカスト・ヌブティと違い、現王家にケメヌの血は濃い。王家の血もまたケメヌに流れ込んでいる。
 似ているのも道理。だが、あれらとは全く別なものだ。セトは男から視線を外した。
「ともかく、明日は王子たちの儀式だ。大神官位についても何か話があるとは思うが」
「ケメヌは先にこのことを知ったのだろう。大宰相は何か言っていないのか?」
「取り立てては。アメン=ラァの動向に危機感を持っているようではあったが」
 ヘジュウルが立ち上がった。見送りを呼ぼうとするセトを彼は制した。
「私は、ヌブト公、貴公を次の大神官に推したい。貴公の身分ならば職に足りぬことはないだろうし、かつて神殿の神官であった立場からも、貴公が大神官に納まるのは不自然ではないと思う」
 その日の内にヘジュウル・ケメヌは王の許へ向かった。そして彼は、絶望して、自らの仮居に帰った。


 王子たちの成人の儀は、冥界へ下りた大神官に代わって、次席の神官であったヘイシーンが執り行った。始まる前には散々怖いと騒いだ王子たちだったが、それも裏でのこと、臣下たちの手前は気丈にこの儀式を受け終えた。彼らは既に割礼後の治療のため儀式の間から医務室へ連れて行かれたし、切り取られた彼らの一部は神の許に奉納されている。
 儀式が終われば次は祝宴の筈であったが、その前にと、王が皆を呼び止めた。
「大神官のことだ。今朝までには聞き及んだものが多いと思うが、アメン=ラァの大神官が冥界へ向かった。ついてはその葬儀と新しき大神官位に関して決めねばならない」
 その場にはセトやシモン、ヘジュウル・ケメヌを始めとする州の司たちが集まっていたが、彼らは揃ってヘイシーン或いはセトを見、次いで先に見なかったどちらかへ視線を移した。
 どちらかなのだ。大神殿の次席神官ヘイシーンか、ヌブトの公にして王宮の神官であり先の戦でも武功を立てたセトか。誰もがその二人以外の可能性を考えず、そして実際、王が選んだのもその二人の中からであった。
「葬儀は大神殿の取り持ちで行うよう。次の大神官には現次席神官を任命する」
 室内に沈黙が落ちる。ヘイシーンが王を拝礼した。
 宴の前の衣装換えのため王と宰相、ヌブト、ケメヌの両公が、そして自らのものとなった神殿へ戻るため大神官が、儀式の間を退出する。残されたものの中から、誰からともなく、失意の声が零れて消えた。


 宴には王妃と公妃も姿を表した。治療を済ませた王子たちも目出度く大人の仲間入りを果たし、麦酒を注がれては飲んでいる。美しい乙女たちが酒壷を持ち踊るように人の間を行き交い、また別の乙女が果物の籠を抱え現れ、酔った人々のためには芳しい香が焚かれ出した。
 主賓の王子たちを除けば、宴の参加者は上座が王公家の六名、下座が侯家やその過客の三十三名。偶然にも、或いは必然であろうか、かつての、北東からの凱旋の折と、その顔触れは同じだった。
 偶然か必然か――選ぶならば、それは必然である。特に下座の三十三名についてはそうだ。彼らは、大半が危機に晒され続ける下つ国か上つ国の国境の土地のもので、十三年前もこの時も、国家の外政に関心あって王都を訪れたのだった。
 しかし祭典に乗じて王都の様子を見にき、そして大神官位について落胆した人々も、今ばかりは不満を捨て飲み騒いでいる。タァウイ人は基本的に宴好きなのだ。セトですら幼き頃よりを知る王子たちの慶事に口争いの種を持ち込むことは慎み、静かに王の傍へ座していた。
 全ての参加者に酔いが回り幾人かが潰れた頃、宴は閉会となる。あまり強い酒に手を付けなかったセトは微酔程度に留まったが、大人に混じり酒を飲み交わすのが始めての王子たちは、言うも酷い有様であった。勧められた酒を片端から飲んでいた王なども、強かに酔って足元を危うくしている。
 そのような状態であったから、この晩、セトは一人で自らの館に帰った。王に問いたいことはあれど、まともな返答が聞けそうに無いのならば問うことにも意味は無い。そして王の側もセトを寝台に呼びはしなかった。
 セトは一人帰り、一人床に就いた。それを幸いとするものが、一人、いた。


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