セネト・パピルス 32
2010/4/23


 物音に意識が浮上した時、セトは初め、侍女がやってきたのだと思った。だがすぐに思い違いだと気付く。己の優秀な侍女が、主に断りもせず部屋へ入ってくるだろうか? たとえそれが就寝中のことだったとしても。
「お静かに。どうか、お声を上げないで」
 飛び起きたセトに、暗闇から押し殺したような声が掛けられた。女の声であった。どこか聞き覚えがあるような、全く知らぬような、そんな声であった。
「誰だ?」
 潜めた声でセトが問う。女の声を聞いて、彼は少し落ち着きを取り戻していた。どこか懐かしい声。記憶を探れど誰であるかは分からなかったが、しかしセトにはその声の持ち主が悪しきものとは思えなかった。
 闇の中で気配が動く。硬く鋭い音が鳴り、何ごとかと考える間も無く部屋の中に小さな光が灯った。火打石だ。女が角灯を持ってセトの許へ近寄り、寝台の前に膝を附いた。
 灯りが女の顔を照らす。白い肌、青い瞳。灯火を翳した腕の間に、長い、銀の、髪が流れている。
「キ――」
 セトが息を呑んだ。その音が静寂の中に響いた。
「怪しいものではありません。私はアシュの女主。貴方様の族の神と同じ姿の神に仕える、アシュの族の頭です」
 女の言葉とセトの記憶が繋がる。だがその名を呼ぼうとセトが唇を音の形に開いた途端、彼女はそれを遮るように次の句を継いだ。
「名は、ジブリールと申します」
「ジ、ブ、リール?」
 切れ切れの発音でセトは女の名を繰り返した。異国の響きは口にし辛かったが、それだけではなかった。
「呼び難ければネケトネチェルとお呼び下さい。どうぞ、お国の言葉で。力強き神を讃える句、それが私の名の意味です」
 女は二つ名を名乗ったが、それもセトの記憶を裏切った。そこまできて、漸くセトは現状を認識した。
 アシュの女――ネケトネチェルは、セトより幾らも若かった。セトも一見の外観ならば十数年前から然程変わらぬ性質であったが、彼女の若さには綻びが無かった。灯りを持つ指先まで瑞々しく張りがあり、目許は墨の一本さえ引かれていないにも関わらずはっきりと際立っている。
 それはセトの記憶の中の娘そのものだった。そして、それ故に、彼女がその娘であるわけが無かった。
「ネケトネチェル――いや、アシュの女主よ。私になんの用があってここへ来た?」
 平静を装ってセトは問うた。このような夜更けに人目を避けて、通常の用でないことは明らかである。女はアシュの族長だとその立場を述べた。それは即ちアシュの族長として話をしにきたということだ。
「それをお聞き下さり嬉しく思います。ですが、先に、私が聞かねばなりません。私はアシュの族長。ならば、貴方様は、何処の誰でいらっしゃるのでしょう」
「何処の誰? 私はヌブトの公だ。知って来たのではないのか」
 セトが聞き返すと女は僅かに言葉に詰まった。何か、言い方を考えているようであった。
「――貴方様はヌブトの公。異国のものに寛容なカスト・ヌブティの司。けれど、それだけではない筈です」
 角灯の炎が揺らめく。女が姿勢を正したのだ。
「もう一度問います。セト様。貴方様は王宮の神官でしょうか。神殿の神官であった方でしょうか。大エジプトの政に携わる四公家のお一方でしょうか。それとも」
 ネケトネチェルが言葉を切った。若い娘は言い辛そうに、しかし誤魔化すことはせず、再び口を開く。
「身も心も王の虜囚と成り果てし、宦官なる方でしょうか」
「な――」
 部屋の内を沈黙が満たした。それは実際一瞬のことだったが、セトにはまるで一昼夜ほども長い時間に感じられた。
「セト様。貴方の本意は、どこにあるのです?」
 三度女が問う。セトは今や完全に質問の意図を理解していた。彼は、少しずつ、かつての己が胸の内に蘇ってくるのを感じていた。十数年、穏やかな日々の中で薄れ掛けていた心が取り戻される。
「私は国家の安泰を思うもの」
 低く抑えられた声が、はっきりと、言葉の形を成した。
「国家安泰の礎となったものたちに報いんがため、自らもまたその土石の一つとなるものだ」
 それ以上でも、以下でもない。セトがそう付け加えると女はその白い腕を高く掲げた。
「なればお話し致します。タァウイ上下二国とアシュ、そしてもう一国、プントが置かれている危機的な状況について」
「危機的状況というと、北のことか」
「いいえ。北は、勿論それもあります。ですが、今私が言いたいのは南の話です」
 南。セトは彼女の言葉を一つ足りと聞き漏らすまいと耳を研ぎ澄ませた。南には、これといった大国が無い。先程ネケトネチェルが挙げたプントは唯一の例外のようなものだが、その領地はタァウイに害を成すには離れ過ぎている。また、タァウイ、アシュに並んで危機的状況に置かれていると言うのだ。プントではない。
「南の、クシュの奥地に、タァウイに対する反乱の芽が出ています。それに周辺のチェメフやワワトも同調して、今にも連合が組まれようとしている」
 全く知らぬ話であった。セトの青い瞳が驚きに見開かれる。
「まさか。クシュはタァウイの属国の中でも力弱き国の一つ。反乱など、何故起こす気に」
「十年前のお国に対してなら、思いもしなかったでしょう」
 今のタァウイは傍目にも弱り切っている。セトもそれは分かっていた。ジャヒの件もある。
「その話、どこで? 私の思い違いでなければアシュは北西のチェヘヌウ砂漠から北東シュメールに掛けてを本拠とする遊牧の族であった筈。南の事情に詳しいとは、不思議な話だが」
「ええ。この話はアシュが直接に見聞きしたものではありません。アシュは遊牧の族故に、例えばシェズの港などへ出た際には他族と貿易を行うのが常なのですが――そこでプントの御方から。はっきり申しますならば、何度か大々的な貿易を行い旧知の間柄となっていたことでアシュを信用して下さった、プント王その人の遣いから」
 セトにも、話の要旨が掴めてきた。プントは、タァウイからは遠いが、チェメフ、ワワトとはほぼ隣接している。もしそれらの国がクシュとともに纏まりタァウイを倒したならば、奪った領地で力を付けた国々が次に狙うのは間違い無くプントだろう。プントは乳香と没薬の国と呼ばれ、金を産出し、また北との貿易にも成功している豊かな領土である。アシュはタァウイではないが、タァウイの属国でもないが、タァウイの影響下でタァウイの恩恵を受けて暮らす族だ。
 アシュにとって、プントにとって、無論タァウイにとっても、タァウイの没落は避けて通りたい道となる。
「かつてなら反乱などお許しにならなかった筈です。大エジプトはどこへ行ってしまわれたのですか。その力強さ、さながらナイルを征く龍のごとしと、遥かにまで伝わり聞こえた彼の国はどこへ」
 ネケトネチェルが跪いた姿勢のまま寝台に詰め寄った。
「大エジプトには大エジプトのままでいてもらわねばなりません。アシュとプントと、当然ながら両エジプトそのものと。皆が国の形を保つにはそれしかない」
「――今、タァウイを悪しき状況に追い込んでいるのはアメン=ラァの大神殿だ」
「ええ。そしてそれを助長しているのは王です」
 女は言葉を曖昧にするのをやめた。
「大神殿は既に大きくなり過ぎました。これを抑えるのは並大抵のことではありません。王がそれを庇い立てするのなら尚更。ですから、タァウイを再び大エジプトとするのなら、まずは――まずは、王から挿げ替えねばならない。それが私の考えです」
 女の手がセトの手を取った。指先に力が込められる。
「どうか、貴方様の考えもそうであると仰って下さい。上下二国とプント、アシュのために。そして、貴方様自身のお立場のために」
 どうか、と言葉が繰り返される。だがその声にセトは応えなかった。――否、応えられなかった。賛同も、反論も、咄嗟には彼の口から出てこなかった。たっぷりと間を空けて、彼は漸く待てという言葉を唇から紡ぎ出した。
「待ってくれ。タァウイの現状については解る。しかし、挿げ替えなど、それでは、あまりに、話が急だ」
「では何か他に大エジプトを大エジプトに戻す方策が? 時間を掛けることは、恐らくできません。王子の成長を待つというのは無理です」
「だが――とにかく、待ってくれ。私はまだ、大神官位のことについて、王の真意を聞いてもいない」
 もしも大神官をヘイシーンとしたことに、或いは自分を王宮の神官に留めたことに、それなりの理由があるのならば。そうであれば、まだ取り返しは付くかもしれないのだ。
 セトの訴えに、ネケトネチェルは一旦俯き、それから顔を上げてその美しい瞳でセトを見据えた。
「では、三日待ちます。三日でお心を決めて下さい。私の考えを可とするか、何か他の策をお立てになるか。どちらでも構いません。三日後の夜、お心を伺いに来ます。今日のようにお一人で、お館にいらして下さい」
 ネケトネチェルが立ち上がる。三日後、とセトは確かめるように口に出した。
「その間に、私が王に密告するとは考えないのか?」
「ええ」
 明かりが消える。女が吹き消したのだ。
「貴方様は国家安泰に心砕かれる御方。このままではならないと、解っておられる方の筈。それを信じて今は去ります」
 女の気配が再び闇へ隠れゆく。彼女のいた場所に向かい、アシュの女主よと、セトが急いた声を投げ掛けた。
「アシュの女主よ。何故私のところへ来た? 私よりも確実に話に乗るものは、他にいただろうに」
「確実に話に乗るものなら話が纏まってから誘い掛けるので充分です。――私はこの数日間ウアセトの町を回りました。族のものを使い色々調べもしました。けれど、貴方様の本意だけは量りかねた。王に付き敵となるか、王を見放し味方となるか。量りかね、その時、一つ思い出しました」
 何をか。訝るセトの声に女が答えた。
「昔、タァウイで内乱が起きた際のことです。巻き込まれ命を落とした我が族のものを、まだ忌み嫌われし存在であった白き肌の娘を、丁重に葬って下さった方は、名をセトと仰り、王宮の神官であらせられたそうです」
 気配が僅かに遠ざかる。窓際に立ったものか、微かに、髪が風に鳴る清かな音が聞こえた。
「何も知らせずその方を討ち取るようなことはしたくなかった。それが理由です」
 女の去った部屋でセトは寝台に身を倒した。彼の両手が持ち上がり、彼の顔を覆う。
 夜が過ぎるまでずっと、彼はそうしていた。


 翌朝、眠りの足りぬ頭で出仕したセトは、多くの人々の予想に反して大神官位のことを取り沙汰しなかった。そしてその翌日も、彼は王に対し何も聞こうとせず一日の勤めを終えた。その日にはすっかりと二日酔いから立ち直った王の渡りがあったのだが、その最中にも、セトは貝のごとく口を噤んでいた。
 三日目の朝――その日は偶然にも週に一度の休暇日であったが――とうとう、王の方が痺れを切らした。
「セト。どうかしたのか。ここ数日のお前は少し様子が変だぞ」
 目覚めてのちも寝台を出ようとしないセトを、抱き込みながらアテム・アンジェティはそう問うた。彼らが怠惰に時を過ごすことは珍しい。常ならばセトがさっさと起き出すからだ。
「なんでもありません。ただ少し、宴の残滓が身に残っていただけのことです」
「宴の? お前は大して飲みもしていなかっただろう」
 正論にセトが視線を逸らせる。
「――私は、もう、貴方様ほど無茶を出来る年ではありませんから」
 彼は、問うのを恐れていた。王に問い、その答を聞くのを恐れていた。王の答がセトの望むものである確証など無い。三日目を向かえ、もはや内々で済ませられぬことは解っていた。この晩にはアシュの女主ネケトネチェルがセトの決意を聞きに来る手筈だ。それまでに、王の真意を聞いておかねばならない。
 だが、それでも、彼は躊躇っていた。
「気が冴えぬなら何か遊び道具でも持ってこさせよう。な、セト」
 褐色の手のひらがセトの頬を撫でる。心地好い感触に彼は目を閉じた。
「寝るなよ。すぐに戻るから」
 アテムは寝台を降りると下帯と腰布だけを着て廊下へ出て行った。侍従を呼ばう彼の声を聞きながら、セトが亜麻布の上に身を起こす。
 天気の良い朝だった。窓の外から鳥の囀りが聞こえ、彼はそれを知る。
 青い瞳が上を向いた。殆ど快晴に近い空に、一つだけ、真白い雲が浮いている。固形的な、層を成して広がるその雲の形を、セトは龍のようだと思った。


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チェメフ:エジプトの南、クシュの南東の国。
ワワト:エジプトの南、クシュの北東の国。