セネト・パピルス 33
2010/4/29


 少しして、セトが軽く水を使い服を着た頃に戻ってきたアテムは、細長い、引き出しの付いた木の箱を抱えていた。箱の上部には縦に三、横に十の枡目が焼き付けてあり、各々の枠の中には美しい文様が描かれている。
「回り双六ですか」
 その中でも一般的な、冥界道中を模したものだ。セネトと呼ばれ、タァウイ人には墓までも持っていくものが多いという。死後においては神と駒を競わせ、勝利すれば即ちイアル野への道が開けるそうなのだが――この辺りはタァウイ人にしか解らぬ独特の感性だが――宗教的な意味を抜きにしても、人気の遊戯であった。
「なんだ、不満そうだな。回り双六は嫌だったか?」
「いえ。これが嫌なわけではありませんが……てっきり、札遊びにでも付き合って頂けるかと」
 札遊び。王子たちがよく遊びセトも好むそれは、アテムもまた強いのだ。セトとて大したものだが、彼はそれに輪を掛けて札の扱いが巧い。巧いものと札を争わせるのは良き楽しみである。
 はは、と快活にアテムが笑った。笑いながら、彼は箱の引き出しを引いた。
「あれは駄目だ、お前が本気になり過ぎる。房事のあとにはセネトくらいがちょうどいい」
 引き出しから二種類の駒が取り出される。赤いものと、青いものと、五つずつが盤の上に並べられた。
「今日は投げ棒でやるか。さぁ、どちらの駒がいい」
「では青を」
 刻み目の付いた四角棒が渡された。セトがそれを転がす。最初の駒が、二つ前へ進んだ。


 勝敗は、赤い駒の勝利という形で付いた。途中で盤から蹴落とされた駒、最後に投げられたままになっていた四角棒を、アテムが拾う。
「青いのが一つ足りないな」
 その辺りにないかと手許を指されて、セトは自分の身体の後ろを見た。先程駒をのけた時に、脇へ置いたのが転がったかもしれない。探すと青い駒は簡単に見付かった。椅子代わりにしていた寝台の、亜麻布が波打った陰に隠れていた。
「ありました」
 布をよけ、駒に手を伸ばす。だが、その指先が駒に触れる直前で、セトは手を止めた。彼の目線は、彼自身の指先に固定されている。数秒して、おい、とアテムが彼を呼んだ。
「どうした。あったなら早くこっちにくれ」
 催促され、セトが我に返る。彼は駒を拾って渡し、アテムが片付けに気を取られだすと、再び自分の指先に視線を移した。細って、骨と皮が目立ち過ぎ始めた、白い、指。
 窓の外では、雲が、少しずつ輪郭を虚ろにしながら、まだ龍の姿をしている。
「ファラオ」
 ちょうど最後の駒を仕舞い引き出しを閉めたところだった王が、なんだと言って顔を上げた。
「大神官位は、私が頂けるものと思っていました」
 どこかでは言われると予測していたのだろう。唐突な言葉にも関わらず、王は驚きもしなかった。
「職のことだけならお前でも良かったんだがな。だが、そうすると、お前はまた昔のように神殿に篭るようになるんだろう。それでは困る。こうして気軽に会えなくなるというのはな」
 片付けを終えた王が、言いながらセトに手を伸ばす。近付いてきた褐色の手を、セトが叩き落した。反射的で、衝動的な行動だった。
「セト?」
 窺うような声音に、セトは首を振って応えた。解っていた。きっと、大した理由などないのだと、解っていたのだ。だから、三日の猶予の最後の日まで、セトは問わなかった。
「それしきの理由で。それしきのことで、貴方様と言う方は――貴方様と言う方は、本当に、私の思いなど何一つ汲んで下さらぬ」
「おい。セト」
「私が、今の大神殿のやり方についてどれほど提言申し上げたと――」
 セトが俯き肩を震わす。泣いているのではなかった。だが、怒りのみに震えているのでもなかった。
「帰って下さい」
「何?」
「帰って下さい。でなければ、あらぬことを口走りそうで、私は自分が恐ろしい」
 王がセトの館から追い出されたという話は、最近では珍しいことであった故、王宮を少し騒がせた。王を追い出すとは余程のことだ。大方大神官位のことであろうと人々は噂し合い、その日の内、これを取り入る機会にせんと王の慰めに奔走するものが出た。
 誰も彼もがセトでなく王の動きに注目をしている。そうして、夜がきた。


 約束の通り、セトは一人寝室で女を待っていた。侍女たちに眠ったと思われるよう部屋の明かりを落とし、暗がりで一人寝台に座り、身じろぎもせずアシュの女主を待っていた。
 時折、外から夜に鳴く鳥の声が聞こえる。闇は深まり、宴の晩、ネケトネチェルが姿を現した頃合に近付きつつあった。この晩は雲によって月明かりも無く、女が人知れず館へ来るには打って付けである。じき現れるであろう彼女を待ちながら、セトは静かに両手の指を折り曲げた。
 寝台からでも政はできる。ある程度ならば、大神官位を逃しても、挽回は効く。だが、それは、寝台にいられる間だけのことだ。見目が気に入ったと王宮へ呼ばれ、美しき睡蓮の花よと讃えられ、あと暫くはそれでいいだろう。しかしその先は? 老いさらばえたその時、私はどうなるのだ? 私が遠ざけられたその時、王は誰の言葉に耳を貸すのだ?
 寝台からでも政はできる。それを信じた時、私は若かった。あれから十四年――私は結局、才知でもって王に仕えるものにはなれずにいる。王座を持つ家に生まれながら王座でなく、正しき妻であらざりながら傍女の中に埋もれることもできず、そして、ついには臣下ですらない。この身が老いた時、私は果たして老シモンのような立場を得ることができるだろうか。王座の女のように国家から尊重されるもので在れるだろうか。
「セト様」
 いつの間にか、女が部屋に入ってきていた。はっとして顔を上げたセトにネケトネチェルが近付く。先日のように、彼女はそこで床に膝を附いた。
「お心のほどをお聞かせ下さい。何をお選びになっても、決して、貴方様に害成すことは致しません。どうか、ご自分の心臓の声に従ってお答え下さい」
 彼女は灯りも点けなかった。早々に、話を切り出した。
 青い瞳が、互いを見合っている。月すら隠れ部屋は闇に満たされていたが、二人は自分に向けられた視線を気配で感じ取っていた。
「何を選んでも、か。その気遣いに、無用のものながら感謝する」
「では」
「私は、今日を限りに、アテム・アメン=ヘテプを見限った。タァウイを再び大エジプトとするためには、まず王を挿げ替えねばならない。その案をこそ、よしとする」
 言いながら、セトは己の心が冷えていくのを他人ごとのように思った。心が冷え、眼差しにもその決意の冷たさが宿る。それを、他人ごとのように思った。
「簒奪。誰が、どのように行うか。問題はそこだ」
「この国では王座の女を妻に持つものにのみ王座を我がものとする権利がある。そうお聞きしました」
「そうだ。そして、その代の王座の女の中で、最も位高きものの夫が、公家ではなく王家の椅子を得ることができる」
 通常の王位継承ならば、そこまで厳密に王座の女の位に拘る必要は無い。一位の女の夫が冥界へ行ったあとは二位の女の夫が王となる。通常ならば、一位の女がそれを認める。だが、ことは簒奪だ。
「王妃様とはそれなりに親しい仲だと。協力を仰ぎますか?」
「いや」
 セトは首を振った。
「アイシスは駄目だ。国家安泰を望み王宮へ働き掛けてもいるが、最後のところで簒奪を許せまい。あれは国家の女主、王座の女として、正統過ぎる」
 手順を踏み、王位をその手に取り返し、それから別な誰かに与え直すというのならやったかもしれない。それは古来より国家の女主の役目とされてきたことだ。だが王座の女というもの自体が建前でしかなくなった時代に、彼女がそのような力を行使できる筈も無い。
「ヘジュウル・ケメヌを巻き込もう」
 少しの考えるような仕種のあと、セトはそう呟いた。
「ケメヌ公様を?」
「あぁ。簒奪という大事を成すのに現王によって復権したばかりのヌブト一家では心許無い。ケメヌ公家を企てに加えることができれば、それに付いてくるものも増えるだろう」
「彼の方は王都の政に不満があられたご様子――解りました、繋ぎは私が致します」
 彼は明日自分の領地に帰るのだ。王都を離れられないセトに人目を忍び直接話す機会は無い。
「ケメヌ公様のことは私にお任せ下さい。代わりに、一つお願いがあります」
「願い?」
「私の族から、間者を数名、王宮と神殿に送りたいのです。ヌブトのものと偽って、王に取り立てさせて下さいませんか」


 数日後、人々は王とセトの和解を知った。王宮に、神殿に、セトの望むだけセトの族のものが職を得、王がセトの機嫌取りをしセトがそれを受け入れたのだと、一目で分かる状態となったからだ。
 王都に増える白い肌のものたち。その真実は、無論、アシュの間者である。彼らは何一つ怪しまれずにセトの館へ出入りし、情報を集め、ばら撒いた。
 一月が経つ頃になると、王都には二種類の人間が出来上がった。セトの企てを知り、それに賛同するもの。何も、知らされずにいるもの。王都は――否、ネケトネチェルやケメヌ公から各州への働き掛けによって、タァウイ中がそう二分された。
 だが、二分された内のどちらも、一つのことについては口さがない。大量のヌブトびとを取り立てさせたセトのことを、王の寵遇の下でとうとう付け上がったかと、人々は密かに批判している。
 さよう。まだ殆どの人間は真実を知らぬ。企てがセトから起こったものであり、ヌブトびとは皆アシュの間者であると、まだ知らぬ。
 セトとネケトネチェルを除けば唯一真実を知るのはケメヌ公で、現在、謀反の協力者は彼の名で集められている。下手すれば立場どころか命まで危ういその役目を、彼は自ら買って出た。人々は企ての首謀者をヘジュウル・ケメヌであると信じ込んでいる。
 これは三者の計算であった。セトは最も現王に近い位置にいる。セトが怪しまれるようなことがあっては王の動向が分からなくなるのだ。セトが疑われてはならない。味方すらも、初めは欺かねば。
「だが、そろそろ頃合ではないかな」
 領地を訪ねたネケトネチェルに、ケメヌ公はそう言った。
「そろそろ、企ての詳細を明かす必要がある。今はまだ漠然と政変の言葉が漂っている状態だが、このまま仔細を隠して最後まで進むことはできない」
「ええ。それに、アメン=ラァが警戒せず新王を受け入れるよう、大神殿にも話の一端を掴ませねばなりません。大神殿に手を付けるのは新王の立場が確としてから。簒奪にはアメン=ラァを協力させるくらいでなくては」
 ネケトネチェルの言葉は大胆だった。敵の最たるものを、味方に引き込む。
「ヌブト公はなんと言っているのだ」
「大神殿の長ヘイシーンは欲の深い人物。現王以上の厚遇をちらつかせれば必ず乗ってくるだろう。と」
 ヘジュウル・ケメヌは老いの見え始めた顎に手を当て、一声唸った。
「何にしても、詳細を、こちらも決めなければならんな。集まった仲間に計画を話すにも、大神殿に餌を見せるにも、新王が誰であるのか決まらないことには」
 王を挿げ替える。誰とか、という問題を、彼らはあと回しにしていた。
「私はアシュのものですから、新王がどなたであれタァウイが繁栄に導かれるのならそれでよいのですが――ケメヌ公様は、どなたがよろしいと思っているのです?」
 女の問いに、ケメヌ公ヘジュウルはたじろいだ。王となるには王座の女との婚姻が不可欠。できれば一位の女か彼女の認めた女とだが、無理でも、王座の資格を持つ女であることが最低条件。
 しかしこの代の王座の女は数少なく、誰もが既に夫を持つ身なのだ。そしてヘジュウル・ケメヌは、公であるからには当然だが、既に王座の女を妻とするものであった。
 少しして、彼は落ち着いた様子を取り戻し言った。
「私は王都に官位を持たぬケメヌ一州の公だ」
 ネケトネチェルが彼の言葉と顔付きを窺っている。
「王宮のことには、詳しくない」
 ケメヌ公がそう言い足すと、アシュの女主は心得たというように頷いた。


 ケメヌ公の使いが幾州かを回り、味方の地の侯らに造反の形――簒奪――が伝えられた頃、契機が訪れた。初めの晩にネケトネチェルがセトへ知らせた、プント王からの情報。それが真実となったのだ。
 アテム・アメン=ヘテプの治世十六年の第一月。クシュを中心とする三国が結託し、タァウイへ反旗を翻した。
「プント王から援軍の申し出が」
 届けられたばかりの粘土板が、王と諸氏の御前に引き出された。楔形の文字が並ぶそれには、南方の連合に対し挟み撃ちを仕掛けないかという誘いが刻まれている。
「こちらとしては願ったり叶ったりだな。元より小国同士の連合。こちらとプントで挟めば、一溜まりも無いだろう」
 そう。だからこそセトも他の誰も戦については心配していなかった。タァウイ一国ならばまた長引いただろう。領地の南端程度は奪われることもあったかもしれない。長引くあまりに連合側へ付く国が出たなら南端では済まなかったかもしれない。だがプントの援軍が付くならば、それらの心配は、凡そ無い。
 援軍の話、戦の話をしながら、セトは別のことを考えていた。クシュ反乱の知らせで各地から飛んできたものたちも、気に掛けていたのは戦ではなかった。
 そもそも、各地から飛んできたということ自体が嘘なのだ。兵を率いいち早く王都へ駆け付けたものたち。彼らは、皆、この日の来ることを知っていた。そして、この日が来た時、それを理由に王都で集まらんと約束を交わし合っていた。
 彼らは、セトの企てを知るものたちであった。ケメヌ公に同調し、アメン=ラァを抑えんと、王を取り替えんと、心を定めたるものたちであった。
 王や宰相を交えた軍議が終わり、出兵の用意が整うまでの間一先ず解散となると、彼らは皆思い思いの場所に散って行った。仮の宿に帰るもの、人と盃を交わしに行くもの。思い思いの場所へ行き、そして怪しまれぬように時間をずらして、彼らはケメヌ公の宿泊所へ集まった。


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セネト:盤双六の一種。現在正確なルールは不明。