セネト・パピルス 34
2010/5/3


 ウアセト城下の宿場には、既に三十五人が詰め掛けている。三十五人は、最後の一人を待っていた。最後の一人が誰か、内三十三名は知らない。知らず、彼らは三十六人目が誰か重要な人物であるとは夢にも思っていなかった。
「諸方」
 その時、部屋へ入ってきたものが、集まる人々に向かい声を発した。三十三人が、はっとして彼に目をやる。彼らの目が驚きに満ち、何人かが、顔を隠そうとした。
「狼狽えずともよい」
 振り返った三十三人に入らなかった二人の内、男である一人が言った。ヘジュウル・ケメヌであった。
「方々に、隠していたことを謝ろう。しかし、この企ての真の首謀者は、今そこに現れた、セト・カスト・ヌブティなのだ」
 部屋の戸口でセトが頷いた。人々がざわめく。セト・カスト・ヌブティが首謀者? まさか、何故に王の寵深き彼が?
「諸方らよ」
 セトは、再び三十三名に呼び掛けた。
「私がこの場にいることは意外であろうか。だが私もこのタァウイの行く末を案じるものの一人。アメン=ラァをこのままにはしておけぬと知るものの一人。この企てに初めより加わったからには、その最後までを頭としてやり遂げたいと思っている。その方らに、異論が無ければ、だが」
 暫く場は静まり返った。皆が何を考えているのかは明白である。
「異論だ!」
 一人が、思い切ったようにそう叫んだ。
「ヌブト公、貴方は王に重用され、王の行いに納得行かぬ点があればすぐさま指摘できる立場の方であった筈。正直に言えば、私は貴方もまた討たねばならぬ敵の一人と思っていた。王に直接意見できる貴方が何故我々に加わるというのか、ご説明願いたい」
 数人が彼の言葉に頷く。セトは一瞬眉を顰め、それから口を開いた。
「重用。重用というが、その実際を知らぬものがこの中にいるとは思わぬ」
 彼には記憶があった。遠き日、ケタ討伐から帰った王のため開かれた凱旋の祝宴で、参加者の好奇の視線に晒された不快感。今この場に集まるものたちは、皆あの時その場にいたものなのだ。三十三名の、下座のものたち。先の慶事の宴にもいたその顔触れを、セトは皆覚えている。
「重用が真に重用であったならば、私は今頃大神官であろうに。王が私の話を聞くのは、結局、私が王の宦官として望める範囲のことでだけだ。王にとって臣下としての私は無価値な存在でしかない。この立場が私自ら進んで得たものならばそれも諦めがつこう。しかしそうではない。私は国家のためと強いられてこの立場になったものだ。国家の、今や危うきこのタァウイのためと強いられて!」
 セトはそこで一度言葉を区切り、三十三の人々の上に視線を巡らせた。
「――これ以上に、我が情けなき身の話を聞きたいものはいるだろうか?」
 誰も頷かなかった。ネケトネチェルが一歩前へ進み出た。
「皆様。他な異論が無いのでしたら本題へ入ると致しましょう。本題へ――いかにして愚王を討ち取り、アメン=ラァを抑え、ヌブト公様を王とするかの話へ」


 話し合いは明け方前に終わった。手順、日取り、ほぼ全てが決められ、残った議題は二つである。アメン=ラァを味方に引き込む、と見せ掛ける、その点に関しては大神殿の出方を窺わねばならないということ、王子たちの処遇をどうするのかということ。
 王子たちの処遇については、決めねばならぬことだが、誰も口にしなかった。理由は二つ。生粋のタァウイ人は、自ら言いだす勇気を持たずセトが言い出すのを待っていた。それ以外は、例えばアシュの女主は、話し合うまでもなく殺してしまうのが当然と思っていた。
「貴方が王となるのに、どうしてあの愚王の息子たちが必要なのです?」
 散会ののち、セトはネケトネチェルをヌブト公館へ招いた。ケメヌ公の宿泊所では意図的に議題へ挙げなかった、王子たちの処遇について話をするためだった。
 王子たちをどうするのか。とりわけ、二人のユギについて。生かして王宮に留めるというセトに、ネケトネチェルは不満を述べた。
「生け捕りなど。ずっと真実の傍近くにいながら何も感じず何も考えず、ただ人の雑言のみに流され貴方様を王の重用に付け上がった国家の敵だなどと言い始めた王子たちを、生け捕りだなどと」
「そう言うな。私のあとのことを考えれば、マアトに叶う王位の流れのためには、王座の女の息子が必要だ」
「公家の娘方がいるではありませんか。その息子も」
 異国の人間に、タァウイ王家の流れは解り辛い。
「公家の娘では駄目なのだ。公家の娘が持つものは王家に連なる血筋のみ。王家の財は、王家の人間を通してでなくては伝わらない」
「でしたら娘でも息子でも、王家の傍流のどこかに生まれるのを待てばよい。何も、すぐさま後継を定めずとも」
 貴方様が老い先短い身であるというのならともかく。そう言ったネケトネチェルに向かって、セトは横に首を振った。それは、できないことだった。
「私が王座に長居することは無い」
 ネケトネチェルが訝りの視線を投げ掛ける。何故を問われる前に、彼はそのわけを口にした。
「私は、厳密には、男でないのだ。私が王の宦官であると、古くから王宮にいるものなら皆知っている。私が王座に長居すればするほど、跡目はどうするのだと、要らぬ不安を呼ぶだろう」
 事実だ。だから宿場では誰も王子の処遇について言い出せなかった。セトが王で在り続けるべきではなく、だがその理由が理由である故に、誰もそれを言い出せなかった。
「私は私の王朝を開きたいのではない。早々にタァウイの建て直しを終え、他のものに席を譲るのが私の役目なのだ」
「ですが」
 沈黙が降りた。勢いを失し、震える唇で女は問うた。
「ですが、それで貴方はよいのですか。王座を譲るということは――」
 王として死なないということ。これまでその身になされたこと、これからこの計画に置いてなすこと、神と神に連なる王ならば許されるそれらのことを、罪として引き受けるということ。死後の裁きでその心臓をアメミットの餌食とし、イアル野へ辿り着けぬ道を、永久に彷徨うということ。
 セトが窓の外へ目を向けた。いつの間にか夜は明け、白んだ東の空から、世界が姿を現し始めていた。
「時に、雲が龍の形に見える」
 聞き逃しそうなほどに小さな呟きだった。発言の意図を掴みかね、ネケトネチェルが困惑の眼差しで彼を見る。セト・カスト・ヌブティが、天青石の瞳を瞼の裏に隠した。
「時に、雲が龍の形に見える。ナイルを征く力強きと、お前たちの言う龍だ。時に雲が龍となり、そして暫くもすれば太陽の船が動いてその白い姿を散り散りにする。私は、そのようなものなのだ。今、私は力を持ち決意した人間だが、しかし、いずれ移ろうだろう。身も、心も、ここに留まり続けることはできぬ」
 長い息が吐かれた。そこに篭る悲壮の響きを、ネケトネチェルは聞いた。
「これ以上に長引かせてくれるな。私は、私がいつまで、龍で在れるかも分からないのだから」


 三日後、王と集まった諸侯ら、その兵らを乗せた船々がナイルの流れに浮かんだ。船はナイルを南上し、アブゥ侯家領アンケティに錨を下ろす。クシュはその目と鼻の先だ。
 幾らも間を置かず、戦いが始まった。ウアセトに残ったものたちは急ぎ準備を始める。プントの援軍が駆け付けるのは早いだろう。勝敗が付くのも、多分、アケトの内だ。それまでに大神殿を騙し、簒奪の用意をせねばならない。
 ウアセトに残ったのはセトとネケトネチェル。それに、各地の祭司や沿岸居留区の商人らだった。諸侯はそれを理由に王都へ来た以上、戦地に赴かないわけにはいかない。王都に親族がありそれを指揮官代理に立てることもできたケメヌ公は行くも残るも選べたが、侯らが万が一にも裏切らぬよう、目付けの役割を持ってともに出立した。
 この企ての参加者が次に揃うのは、軍が帰還し、凱旋の宴が開かれるその時だ。その時には、プント王本人こそ領地を離れる予定無しだが、プントからも兵士が数十、盟友の証という名目で送られてくる。
 その時は、すぐだ。
「大神殿から使いの方が参られました」
 館で書きものをしていたセトの許へ、侍女がやってきた。セトがメフウ紙の束を手許で纏める。
「書簡をお持ちになったようです。我が主は現在書きものの最中、書簡ならば預かりましょうと申したのですが……どうしても、直接手渡したいと」
「あぁ、解った、行こう」
 立ち上がったセトが戸口へ向かう。だが、女はそこを退かなかった。
「なんだ、まだ何かあるのか」
 問うたセトを、彼女は真っ直ぐに見据えた。開かれた唇に、普段の遠慮は無い。何を、と、彼女は言った。
「何をなさっているのですか。今、私が参りました時、お書きになっていたものを隠されたようにお見受け致しましたが」
「――な、にと?」
 セトの呼吸が一瞬止まった。気付かれている。何をと言うからにはまだ多くを知られてはいないだろうが、それが通常のことではないと、気付かれている。呆然とするセトから、女が目を離した。
「いえ。何をなさっているのでも良いのです。ですが、無理はなさらないで下さいませ。近頃、私には、セト様がご無理をされているように見えるのです」
 女が一介の侍女の域を超えてものを言ったのは、この時と、そしてのちの二度切りだった。彼女は、実に良き侍女であった。


 セトの侍女が主に行いを問うた日に大神殿からの使いが持ってきた書簡は、アメン=ラァが企てに乗ってきたことを示すものだった。ウアセトの同志たちはその夜集まり、とうとう、計画の全てを定め終えた。
「ネケトネチェル」
 その会合のあとのことである。他のものたち同様に去ろうとした銀の髪の女を、セトが呼び止めた。
「なんでしょうか、セト様。何か決め残しでも?」
「いや。決め残しではない。ただ、アメン=ラァのことだ」
 大神殿の力をいかにして削ぐかは、簒奪のあとに時期と様子を見、取りうる手段でもってということになっている。具体的には喜捨を減らすところからの始まりとなるだろうと、そういう話に落ち着いたのだ。表面上セトはそれに同意した。だが、今、彼は異なることを言うのであった。
「喜捨を減らすなど手緩い。私は、遷都を考えている。アメン=ラァはウアセトの土地神。王都を移せば奴らは付いて来られない筈だ」
「王都を――しかし、遷すとなると、どこへ?」
「それも考えてある。メンネフェルへ。今は増水の度沈む頼りなき土地だが、それについても考えはある」
 ネケトネチェルが青い瞳をセトに向ける。疑りが、瞳に現れていた。
「そこまで決めていたのなら、どうして先程皆の前で仰らなかったのです?」
 声音には心底解らぬといった響きがある。セトは苦笑し、それから顔付きを硬くした。
「信じられぬからだ」
「信じられぬ? 今になって、簒奪の手筈は全て知らせ終えてしまったものたちを?」
「そうだ。いや、違うな。簒奪に関しては、なんの心配もしていない。だがアメン=ラァのことに関しては――神のことに関しては、タァウイの人間は、信用に足りぬのだ。タァウイ人の信心は深過ぎる」
 アシュの女が、困惑の表情でセトを見上げた。
「いつ大神殿の側に寝返るか解らないと? ですが、貴方様とてタァウイのお方。タァウイのお方でありながら、神への反旗をしかと持っておられるお方ではないですか」
 ふ、と、セトの唇から小さな息が漏れる。それは溜息のようにも笑い声のようにも響いた。
「私は、神を信じぬのではないが、神がこの地上に影響を及ぼすとは思っていない。神がこの地上にいて人へ干渉するのなら、私の運命は多分、もっと違うものだっただろう。神の地上の威光は信じていない。死後の国については疾うに諦めている。だから私にとってアメン=ラァは脅威でない。だが、他のものは、そうではないと思う」
 一拍置いて、セトは身体の向きを変えた。ネケトネチェルが何か言おうとするのを制し、彼は戸口を指差した。
「出よう。我々だけで残っていると、こちらが裏切りを怪しまれる」
「――分かりました」
 二人が諸氏のあとを追う。外へ出る直前、セトは歩の進みを緩めた。ネケトネチェルも釣られて止まる。彼は肩越しに彼女を振り返った。
「今の話は他言無用だ。ケメヌ公にも、な。プントから来る兵らには、いずれ話すことになるだろうが」
 それだけを言い、再び常の速度で歩み出す。密会所の戸をくぐった細い背が、暗闇の中に紛れて消えた。


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アンケティ:地名。ギリシャ語読みフィレー、現アスワン付近。上エジプト南端(エジプト本土南端)の都市。