セネト・パピルス 35
2010/5/4


 アテム・アメン=ヘテプの治世十六年、第四月。アケトの末のその月に、南の反乱が鎮まった。王の軍、そして諸侯らの軍がウアセトへ戻ってくる。先触れの船が到着し、凱旋の儀の準備が始まった。
 真っ先にウアセト入りを果たしたのはケメヌ公の船である。そこへシェメヌやネンネスートの侯が続いた。
「王の船が見当たらないが」
 ナイルの河岸にずらりと船が繋がれ出したが、どれも然程に大きな船ではない。セトはそれを見渡し、上陸したケメヌ公へ声を掛けた。
「王の船はプント船と連れ立ってくるらしい。プント船の用意を待って出るとの話だったから、今頃第一瀑流の辺りだろう」
「では到着は明日、もしくは明後日。このアケトの水の多さを思えば、明日とするのが妥当なところか」
 セトの見解にケメヌ公が頷いた。近くにいたものたちも、皆、二人の会話をしっかりと心臓へ刻み付ける。王の帰還は明日。そうなると、凱旋の儀は翌日かそのまた翌日だ。
「待ち遠しいな」
 ケメヌ公が言った。セトが曖昧に相槌を打つ。
 ウアセトの船着き場に二隻の大船とその船団が舳先を並べたのは、次の昼下がりだった。
 船の一つはラァの太陽船を模したもので、王が行きにも乗っていったものだ。そしてもう一隻。そちらには、セトも他のウアセトのものも見覚えが無かった。黒い木材で組み上げられた船の形は、タァウイのものではない。
「アソ号というそうだ」
 太陽船から降りてきた王が、出迎えの面々の前で船の名を告げる。
「プント王が信奉する南風の女王の名だと。乗員は皆男だがな」
 桟橋へ、アソ号から板が架け渡された。黒い肌の男たちがそこから河岸へ降りてくる。一人、二人、心の内でセトは数えたが、その数は三十六で止まった。
 逞しい身体付きの黒い男たちが人々の前に並ぶ。中央の一人が前へ一歩踏み出した。
「この度は国の王の命を受け、大エジプトの支配者たる方に仕えんためプントよりやって参りました。どうか私どもにナイルの水を飲み黒土を踏みしめる栄誉をお与え下さいますよう、願い申し上げます」
 男の顔が、一瞬だけセトを仰いだ。誰も気付かないほどの短い時間だった。
「無論、我々はそなたらを歓迎する。そうだな? 皆」
 王がセトと大宰相を見遣る。二人は深く頷き、次いでセトが口を開いた。
「至当で御座います、ファラオ。明日の儀と宴が、プントの方々へのもてなしともならんことを」


 その晩、帰還したばかりのアテムがセトの館を訪れた。侍女の知らせにセトが部屋の戸を開ける。入ってきた王は精油の甘い香りを纏っていて、戦場帰りの血生臭さは、すっかり取り除かれていた。
「お疲れではないのですか」
「まあ、な。勝利の心地好い余韻程度だが」
 言いながらアテムは寝台に座った。招かれ、セトもその隣に腰を下ろす。
「疲労よりも、お前に逢えないことの方が辛かった」
 鼻先が触れ合い、言葉尻が吐息になって頬に掛かる。セトが目を閉じるとくちづけが始まった。久方振りのそれは随分と長い間続けられ、セトが息を切らして漸く唇が離された。
「制圧後、クシュの王が服従の証として美しい娘たちを差し出してきたが、全て置いてきてしまった」
 くちづけのあと、セトの頬に手を添えたまま、アテムが言う。
「皆、若く美しくて――お前よりも、怒るなよ、美しいものもいたかもしれないが――見目だけが問題では無いのだな。なまじお前が容色に優れているから、これまで深く考えたことは無かったが」
 無かった、が? アテムの言いたいことを考え、それが解って、セトは目を瞠った。
「――さようで御座いますか」
 セトの声が震える。聞いてはいけない。聞いてはいけない! 心臓がそう警鐘を打ち鳴らしていたが、彼には、もう、耳を塞ぐことなどできなかった。
「思えば、考えていなかった分、無神経なことも言ったかもしれない。お前が、見目を褒めると嫌な顔をするのは、そういうことだったんだろう。見目を褒めたからではなく、見目だけを褒めたから、怒ったんだろう」
 おお睡蓮の花よ、我が愛しのセシェン、原初の水より生まれ、太陽の鼻先に美しく香るもの。音階に乗せてアテムが呟く。
「覚えているか? お前に贈った詩だ」
 セトは頷いた。言葉も無かった。
「セト。アケトに咲き余の国を潤わせた睡蓮よ」
 格の高い口調で、詩の続きを歌うように、アテムが言葉を紡いだ。
「この先、ペレトに入り、そしてシェムウが来て、花が枯れ茎が折れたその時も、お前は変わらず余の国に根を張っていてくれるだろうか」
 セトは答えなかった。俯き、肩を揺らしながらやっと言った。
「もう少し――もう少し、早くその言葉をお聞きしたかった。でなければ、私が、どうして」
 それ以上は口に出せず、セトは両手で口元を覆った。喉の奥から息がせり上がってくる。
「セト」
 褐色の腕が彼を抱いた。
「この身の態度がお前に辛い思いをさせていたのなら、それを償わせてくれ。メリィ・イ・チュ。メリィ・イ・セシェン。――愛しているんだ」
 とうとうセトの唇から嗚咽が零れ出した。アテムはセトの薄い背を撫でさすって彼を宥めようとしたが、それは逆効果だった。
 肩口に押し付けられたセトの頭をアテムが撫でる。色素の薄い髪を何度か梳き、それから、彼はセトの顔を上げさせ、眦にくちづけた。
 二人は寝台に倒れ込み、夜の四時間の間、互いの欲することをして過ごした。そして彼らは眠りに就き、もう四時間が過ぎる頃、朝がやってきた。


 朝がやってきた。やってきてしまった、と、セトは思う。今更立ち止まれはしない。アテム・アメン=ヘテプは、今日、死ぬ。もはやそれは変えようの無いことだ。それを変えようと思えば内乱が起きる。アシュやプントと敵対することになる。我が身のことがどうあれ、アメン=ラァの脅威が去るわけではない。
 自分一人の想いで、国家を、そこに住まうもの、住まったものたちを、蔑ろにすることはできない。
 セトが身体を起こすと、横で唸り声が上がった。アテムが細く目を開いている。
「なんだ。もう起きるのか。祭典は夕暮れからだろう。もう少しくらい」
「儀の準備が。今日は私も神官の役を務めますので」
 アテムが起き上がった。寝台を離れようとするセトの腕を引く。
「声が擦れているな。夜までに治るか?」
「……蜜でも舐めておきます」
 言って、セトは寝台を降り床に立った。身体の中心が重い。肉体と、精神の、内側が重い。


 アメン=ラァの許に参殿したセトを、待っていたのは儀に関わるものだけではない。この簒奪において味方であるものの内、プント人とネケトネチェルを除く三十四名、そして仮初の仲間ではあるが大神官ヘイシーン、それらのものがセトを待っていた。
「アシュの女主がいない、ということは、手筈通りなのだな」
「あぁ。彼女は今頃プント船アソの中だ。積荷を密かに降ろし、自族の手土産へ偽装している最中だ」
 それが終わると、彼女は一旦、王宮へ品々を運び込む。そして再び族の本隊へ戻り、あまりに多過ぎて一度には運び切れなかった、ということになっている、残りの戦勝祝いを持ってウアセトへ再出発するのだ。
 実際には、それは時間稼ぎである。宴の始まりからネケトネチェルの到着までの間、その短い時間に計画は動く。
「プントのものたちは?」
「この儀式から王の近衛に混ざると」
「そうか。それは好都合なことだ」
 セトはぐるりと部屋の中を見回した。
「今一度確認しよう。我々は、今日、アテム・アメン=ヘテプを討つ。決行の時は凱旋の儀のあとの宴。アシュの女主が祝いの品を王に贈ったその時。間違いは無いか?」
 語尾が掠れていたが、全員がその声を確かに聞き、同意を示した。
「我々は、立場こそ違えど、皆この企てを良しとしたものだ。それを明らかにすべく、ことは全員が立ち会うその場で、全員が束となって行う。これにも違いはあるまいな?」
 無論だと誰かが叫んだ。
「では、各々定めた通りに。決行まで、決して勘付かれぬようにな」
 人々は自分の役割を確かめ合い、必要な準備を終えると、ひっそり神殿を出て行った。大多数が去り、大神官も自室へ帰って、部屋に残ったのはセトとケメヌ公だけになる。二人は、どちらともなく近付いた。
「ヌブト公。決心のほど、貴公に揺らぎは無いのだろうな?」
「愚問を。今更何に揺らぐ」
「王の帰還にだ。貴公の目――感情を見せない石の瞳なのは変わらずだが、涙袋が腫れて見えるぞ。別れが惜しくなっているのではないだろうな」
 セトは答えない。答えず、彼の質問に質問で返した。
「ヘジュウル・ケメヌ、ケメヌの家の司、貴公こそ良かったのか? 今のままいけば、この簒奪、大宰相には全く知らぬ話となる。あの老体を討つ気は無いが、そなたの家、割れるかもしれんぞ」
 ケメヌ公が眉を寄せる。溜息とともに、彼は言葉を吐き出した。
「仕方の無いことだ。大宰相は王の、そして今は王子の、教育係でもある。自分が面倒を見た子供は可愛いもの。彼の翁には王を裏切れんだろう。知らせるべきではない」
 そういうことだと、セトが口を挟んだ。
「仕方の無いことだ。違うか、ケメヌ公」
 ヘジュウルが黙って腕を差し掲げる。彼を置いてセトは部屋を出た。儀式の準備をせねばならなかった。


 神殿から館へ戻ったセトは、古い、箱を出して開けた。箱の中には幾つもの装身具が納められている。装身具自体もまた古く、そして、そのどれにもセトは見覚えが無い。全てセトのものであるが、それらを受け取り箱に仕舞ったのは侍女なのだ。
 かつて贈られた品々。見たくもないと侍女に始末を押し付けたものたち。屈み込み、セトは箱の中へ手を入れた。金銀がぶつかり合って鳴り、鮮やかな色の布が衣擦れの音を立てる。
 青い長衣は、ずっと仕舞い込まれていたとは思えぬほど美しい布だった。白い巻き袴と紫の上衣も同様、染み一つ無い。黄金の胸飾り、白銀の吊るし板、嵌め込まれた翡翠に天青石。それらを、セトは取り上げ、身に着けた。
 身を飾り立てながら、セトは自分の運命を思う。王の言動に振り回され、アメン=ヘテプの負債に振り回され、決してアテム・アメン=ヘテプを信じてはならないと己に言い聞かせてきた十数年を思う。いずれ裏切られるのだからと、運命と名付けた子を前にして思ったことを思う。
 王と臣下としてならば、裏切ったのはアテム・アメン=ヘテプだ。だが、あの時考えた意味で言えば、裏切るのは自分なのではないか? 自分が、アテム・アンジェティを裏切るのではないか?


 セトの館に迎えの輿がやってきた。二人乗りの、箱付きの輿だ。王宮から来たそれには、既に王が乗り込んでいる。箱の幕を捲りセトが中へ入ると、彼は目を見開いた。
「似合いませんか」
「いや。まさか。お前に合うと思って用意させたものだぞ。だが、今まで一度だって」
「偶には、良いかと」
 今まで一度も身に着けたことが無かったからこそ、今日の、この一度くらいは。
 少しして、二人の輿が他の神官や貴人らの輿の中央に据えられると、巨大な銅板が打ち鳴らされた。儀式の始まりを告げる音である。箱から、まずセトが、続いて王が降りた。
 セトが表舞台に姿を現すのは久方振りのことである。儀式を取り仕切るのは更にだ。あとのことにも気を取られながら、それでも、セトは遥か遠い日に馴染んだ神官の務めを誤り無く行い、終えた。
 儀式が終わり、式典の参加者はそれぞれの輿に戻った。観衆も、凱旋祝いを名目とした祭りの準備に慌しく去っていく。
 人ごみの中、兵が道を確保すべく声を張っていた。民は、神官の輿は避けて通るが、王の輿へは、逆に群がってくる。王の輿の動きを止めてはならない。だが、王の輿の前に花を撒き願いを唱えれば、それは叶う。そういう言い習わしのため、兵が道を作らねば動くこともできないほどになるのだ。
 播種期に撒く穀物がよく育ちますように。息子が書記になれますように。時折籠の中まで聞こえてくる祈願に王とセトが耳を傾けていた時、唐突に、輿が揺れた。祈願のものが花を撒き損ねて輿を止めたかと思ったが、そうではないようだった。籠の外が騒々しい。信心深い祈願者がうっかりと輿の歩みを邪魔してしまっただけなら、騒ぎになどならずすぐに許される筈だ。
「何ごとぞ」
 幕を僅かに開き、セトが誰へともなく問うた。ざわめきが静まる。騒ぎの中心だったと思しき場所には、兵に取り囲まれた若い男女が青い顔で肩を寄せ合っている。恐らく、彼らが輿にぶつかったのだろう。不運にも、兵士が先触れによって作り出した道へ、人ごみを避ける内にでも、そうとは知らず入ってしまったに違いない。
 セトの問いに誰も答えないのがその証明のようなものだった。これが心底の不届きものなら誰かが彼らの罪状を告げた筈だ。そうしないのは、騒ぎの原因が些細なことだったからに他ならない。
「捨て置け、祭りの日に血など見とうないわ」
 セトの判断に兵士が躊躇いがちな確認を取る。恐らくは王に向けての言葉であろうが、それにもセトが答えた。少し強めた口調に、兵士がひれ伏し自身の愚鈍を詫びる。
「あぁ、もうよい。よいから進め」
 セトは兵士を見て俯いていた顔を上げた。幕を閉じようとし、その直前、人ごみの中に見知った顔があるのに気付く。
「セト? どうした」
 宙で止まった手をどう思ったか、隣に座るアテムがセトの顔を覗き込んだ。セトが幕を下ろし切り座りを直す。
「今、王子の姿が見えました」
「王子? 一のユギか」
「はい。王宮を抜け出し民に混ざって遊んでいたようです」
「またか。まあ、あとでシモンにでも言っておけばいいだろう」
 アテムの言葉に頷き、しかしセトは焦っていた。
 王子の身柄の確保は誰の役目だった? 宴の場で謀反が明らかとなった時、王子たちは既に捕らえられた状態でなければならないのだ。でなければ、謀反と王宮制圧の混乱に乗じて、あのすばしこい子供は逃げおおせてしまうかもしれない。
 もう宴が始まるまで他のものと連絡を取ることはできない。宴の開始を遅らせることも、決行を先送りにすることもできない。
 輿が王宮に到着した。広間に、アイシスとマナ、ナムが並んでいた。
「シモン様は?」
「今いらっしゃるでしょう。何か急ぎの用でも?」
 アイシスが珍しそうにセトを見る。一のユギだと、アテムが後ろからセトに代わり言った。
「抜け出して町で遊んでいたのを見掛けたらしい」
「まぁ。目が利きますわね。舞台から? それとも、移動の輿からかしら」
「輿からだ。輿に民がぶつかってな、兵士が騒ぎ立てたのをセトが止めた。兵と話すのに籠の幕を開けた、その時に見たんだと」
「あら、不届きものに対して寛容ですこと」
 ナムがこっそりと笑った。セトは、為政者としては厳格な部類だ。
「不届きものと言っても高々輿にぶつかった程度だ。そのような些事で祭りの日に血など見とうないわ」
「さっきも言っていたな。まあ、折角の祝祭日にというのは同意なんだが。――ああ、シモンが来たぞ」
 アテムが走ってくる老爺を顎で指した。呼ばれていると察したのだろう。彼はその老体に似つかわしくない速度で王たちの許へ走りきた。
「おう、シモン。急いで来たところ悪いが、一のユギが王宮を抜けて町に行っているようだ。放っておいてもその内には戻ってくるだろうが、ちょっと叱ってやっておいてくれ」
「王子が、またで御座いますか。解りました、では、失礼して」
 シモンは息を吐くと再び来た方向へ戻っていった。擦れ違いに、数人の貴族が入ってくる。宴の参加者だ。続くようにして花配りの乙女たちがやってきた。
 間に合わない。王子たちを捕らえておくのはアシュの手のものの役目であったことをセトは思い出した。宴の参加者ではない。今王子を探しに出て行ったシモンも、今日の宴には正式な参加者として名を連ねていない。だから、彼らを待って宴が停滞することは無い。もう止まらない。計画は、狂ったまま動き出してしまった。
「そろそろ時間ですわね。マナ、わたくしたちも行きましょう」
 アイシスがマナの腕に触れる。彼女たちは、王やセトとは異なる宴に出るのだ。セトたちの宴は地方貴族や此度やってきたプント人たちといった普段ウアセトに馴染みの無いものたちで行われるが、アイシスたちの宴は王宮の官僚や女官が主となる。
 宴の席を二つ設けるように進言したのはセトだ。邪魔ものは全て王妃の宴へ。王の宴の参加者は王を除いて七十三名、それは全てセトの企みに加担するものである。
 大神殿の使いがナムを呼びにやってきた。呼び付け、だが何をさせるわけでもない。ナムが呼ばれた先にはネケトネチェルの配下のものがいて、今日、これから起こることを、彼に説明する。ナムは恐らくこちらに付くだろうが、反発するようなら捕らえておく準備も無いではない。
 ナムが広間を出て間も無く、宴席に王と七十二名の参加者が揃った。残るは到着しだい合流とされているネケトネチェルのみである。宴が、始まった。
 席次はこれまでの宴と変わりない。大神官が参加する分の席が足され女たちがいない分は詰められるが、それだけだ。上座の中央に王、その隣にセトが侍り、続いて王の側にケメヌ公、セトの側に大神官が座る。そして下座の三十三名、近衛とともに警備を務めながら歓待を受けるプント人三十六名。
 人々は盃を交わし始めた。ように、見せ掛けた。セトやケメヌ公、下座でも王の席や近衛の立ち位置に近いものたちは実際に酒を注ぎ合い飲んでいるが、あとは違う。タァウイ人は酒が好きだが、この宴ばかりは酔いどれて散会とするわけにいかない。注ぐ振り、飲む振りで、彼らはアシュの女主を待っている。
「ファラオ。杯を。空でしょう」
 セトの役割は王を酔わせることであった。たとえ治世が拙かろうと、自ら戦場に赴き剣を振るう王なのだ。今とて敵兵から奪った鉄の剣を腰に佩いている。もしも打ち合いになってしまえば勝敗は解らない。数の利といってもプントの三十六名は近衛を相手にしなければならないし、残る三十七名も老体や剣に無縁の商人を多数含んでいる。壁際を取られ囲むことが叶わなければ、その程度の利は無も等しいだろう。
 それ故、セトの役目は王を機敏な動作など望めぬほどに酔わすことなのであった。アテムは企みなど知りもせずセトの注いだ酒を飲み続けている。
 そのまま、半刻ほどが過ぎた。
「西方チェヘヌウよりアシュの方々が参られました!」
 広間の戸を隔てて衛兵の声が聞こえてきた。近衛が扉を開く。そこから、美々しい木箱を台に載せ曳く一団が、入ってきた。


「お初にお目に掛かります、大エジプトの陛下。此度のご勝利と我らが朋友プントとの同盟を祝いたく、西の砂漠より参りました、アシュのネケトネチェルと申します。どうぞ我が族からの祝儀をお受け下さりますよう」
 ネケトネチェルの言葉とともに、木箱が前に押し出された。木箱は人の形をしている。人の形に彫られた上に、金箔、銀箔、数多の宝石があしらわれているそれは、タァウイで一般的な棺の形だ。だが、ただの棺にしては、その装飾の美しさは異様だった。彼女がこれを持ってくると知っていたものたちでさえ、あまりの絢爛さに、初めそれが何か判らなかったくらいである。
「以前、我が族のものがこの地で没し、神職の方の世話になったことが御座います。その際にお聞きしたところ、タァウイの方々は肉体の最盛期の内に来世へゆく準備をなさるのだとか。ご恩を返すにも時期良きものかと思いお持ちしました」
 女が合図をすると、彼女に付いていた男が一人、棺に近付きその蓋を開けた。
「外は先程ご覧の通り。内側には、敢えて箔を貼っておりませんが、そのわけは近付いてお確かめを。材質はハトウアレトの北に住まう我が姉妹族より得た香木で御座います。遮るもの無き香りが、お身体をお包み致すでしょう。また、微かに漂う清浄な香りは、この度プントの方々が乗っていらしたアソ号より、以前シェズの港で買い付けさせて頂いた、上等の乳香を摩り込んだもの」
 おお、と感嘆の声が上がる。ネケトネチェルは、さて、と微笑んだ。
「これが我が族からの祝儀の一つで御座いますが――ただ陛下に差し上げるのでは余興にもなりません」
「というと?」
「見ての通り、これは棺で御座います。それであるからには、やはり、この中に身体をぴたりと納められる方に差し上げるのが筋というもの。足がはみ出る方、胴が納まらない方、内側で身体が泳ぐ方には使いどころも無いでしょう」
 ネケトネチェルが手を打つとアシュの男たちが棺から離れた。
「さぁ、この棺に最も巧く入れる方はどなたでしょうか。順にお試し下さい。身の丈、肩幅、胴回り、全てが綺麗に内へ納まった方、その方にこれを差し上げたく存じます」
 人々が棺の周りに集まってくる。穿たれた穴は、一見、ありふれた体型用のものに見えた。
「一番手は有利だぞ。セト、お前から入るか」
「私ですか。丈が少し合わぬような気が致しますが……」
 言いながら、セトは棺の中へ横たわった。駄目だ、と、すぐに誰かが言った。
「足先がつかえているし、胴回りは余り過ぎだ」
「ヌブト公で丈が合わぬなら、大神官殿も駄目ですな」
 セトは比較的長身だが、ヘイシーンはそれよりも上である。
「となると次はケメヌ公か。横幅は合いそうに見えるが、さて、縦幅はどうだ?」
 指名され、ヘジュウル・ケメヌはセトがのいたあとの棺に足を入れた。ゆっくりと屈み込み、上体を倒そうとして、途中で立ち上がった。
「どうも足の長さが足りそうに無い。しかも胴回りも怪しいところ。もう少し若い頃、背が縮み出し贅肉が増える前ならちょうどだったかもしれないが」
 彼の自己査定に笑いが起こった。では次はと、アテムが人々を見回す。
 順々に棺へ横たわる人が入れ替わり、結局、王を除く全てのタァウイ人が試したが、誰もちょうどに納まることはできなかった。ありふれた体型用に見えたそれは、その実、非常に精密に、特定の人物の身体付きを模している。
「全く、余興も余興だ。最後はこうなるのではないか」
「出来試合だと? けれど、誰の身体にも合わぬのかも知れません」
 ネケトネチェルがそう嘯く。
「まあいい、ここまでやったんだ。最後の一人として入らぬのもな」
 アテムは立ち上がり棺に向かって一歩踏み出した。酔いのためか幾分覚束無い様子で棺の中に腰を下ろす。
「胴回りは問題無いな。足――足も入った」
 棺の傍へセトがやってきた。一瞬だけ、アテムは辺りを見回したが、セトの促す声にそのまま上体を棺の底へ沈め出した。肩がつかえも泳ぎもせず穴に嵌り込み、最後の最後、首を後ろに倒した、その時だった。
「蓋!」
 セトが叫んだ。自分の番が終わったあと後ろに下がっていた筈のものたちが、棺の蓋を持ち上げていた。アテムは、恐らく、何が起きているのか、解らなかったのだろう。蓋が真上に迫って初めて、彼は身体を起こそうとした。
「なんの真似だ!」
 蓋を閉めようとする力と押し戻そうとする力がせめぎ合って、押し戻す力が勝った。アテムが片腕で蓋を支えながら、開いた手を腰に伸ばした。そこには、鉄の剣がある。
 駄目だ、あれを握られたらお終いだ。人々が諦め掛けた瞬間、セトが動いた。細い腕が棺の隙間に滑り込み、アテムよりも早く鉄剣を掴んだ。鞘から滑り出た鉄の刃が円形に軌跡を描く。その軌道に王の上体があった。
「蓋を合わせろ! 早く!」
 我に返った人々が棺に群がった。今の傷は即死の傷ではない。アテムが蓋を落としたのは痛みによる反射で腕を揺らしたからだ。再び押し戻される前に、半端に覆い被さっているだけの蓋をきっちり閉じ切らなくてはならなかった。
「縄を、誰か! 巻き付けろ!」
 セトは、叫びながら、鉄の剣を握った手が振るえているのに気付いた。指に返り血が付いているのを見て、遠退きそうになる意識を、どうにかして奮い立たせる。
 棺は、縄が巻かれてもまだ、音を立て小刻みに揺れていた。中でアテムが動いているのだった。
「早く! 早くナイルへ! 誰も助けられぬよう、流れの中央へ! 早く棺を捨てよ!」
 近衛を片付けたプント人たちが集まってきて、アシュが曳いてきた台の上へ棺を載せた。入ってきた時のように、棺は台ごと動き出した。
「セト様!」
 安堵に崩れ落ちそうになった彼を、ネケトネチェルが呼んだ。
「お気を確かに。まだです。まだ威厳を失ってはなりません」
 小声だった。低く潜めた声で、女はセトに言った。
「貴方は、王として、これからもう一仕事成すのですから。貴方がそれを遂行できると、誰にも疑いを持たせてはなりません。貴方の敗北が予兆されれば、いつ寝返るものが出るか解らないのですから」
 アメン=ラァに対することを言うのだ。だが、と、弱音が口を衝き掛けたセトを、彼女は黙らせた。
「セト様。貴方の仰ったことではありませんか。方々は、そのことに関しては、信用に足らぬと。信頼できぬものに弱い姿を見せてはいけません。人も動物と同じ――弱みを見せれば途端に食い殺されてしまう」
 女の青い瞳が、鋭い光を湛えていた。実例を知るものの目だった。その場に頽れたい衝動を堪え、セトは広間中に響き渡る大声を発した。
「王座の女と王子たちを捕らえよ! 一の王子は先程まで王宮を抜け出し町にいた! まだ誰もその身を確保できていない筈だ!」
 ネケトネチェルは黙ってセトの傍を離れ、ナイルへ向かった族のものを追った。他の男たちも、王妃の宴に踏み込むべく、また王子を捕らえに行くべく、広間を飛び出す。
 彼らに幾らか遅れて、セトは部屋を出た。謀反! セト・カスト・ヌブティの謀反! どこかで王の兵が叫んでいる。セトの周囲をプント兵が固めた。
 セトは王の間へ向かっていた。その途中で、アイシスと出くわした。
 王妃であった女は、彼女の庭の、王宮から直接は通り抜けできない、人工池を挟んだ向こうにいた。
「何が祭りの日に血など見とうないです、この大嘘吐き」
 アイシスがセトを詰る。セトの、まだ清められていない、血に濡れた両の手が胸の高さに持ち上げられた。
「嘘ではない」
 弁明に、アイシスが片眉を吊り上げる。
「嘘ではない。見とうなかった。……祭りの日で、なくても」
 語尾が潤んでいた。アイシスは息を呑み、そしてナイルの方角へ走り出した。逃げたいわけではなかった。だが、走らねばならないと彼女は思った。
 走らなくては。棺に追い付かなくては。あの血ではきっともう助からないけれども、せめて正しき葬礼を挙げなければ。でなければ、誰一人、救われないわ。現世でも、来世でさえも。
 王座の女は走った。その背に虚ろな視線を感じながら庭を飛び出した。途中、泣き惑うマナを見付け、そこからは彼女もともに走った。ナイルの河沿いを走り、少し行ったところで、舟を捕まえて乗った。
 彼女がアケト・アテンに着いたのは、四日後のことだった。


第三章 メリィ・イ・セシェン (後編) 終


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