セネト・パピルス 36
2010/5/6


「何故逃がした!」
 ユギは駆け寄ると銛を手に佇むアイシスを問い詰めた。マアトに背きし王セトを乗せた船は、既に遠く離れた水上で体勢を立て直している。
「正しき王を、貴方の夫を殺したのは奴だぞ! 遺体を捜し行方知れずにまでなっておきながら、何故!」
 ナイルの流れ、風の向き、全てがセトに味方をしだした。もはや、追うことは叶わないだろう。苛立つユギと対照的に、アイシスは、静かに声を発した。
「昔を、思い出したのです」
 可哀想な、わたくしの……言うなれば義弟。かつて王座の下僕であり、後宮の閉じたる門であり、酷き男の寝台の妻であった人。
 欠片も憐れに思わぬのなら殺せとは。それで、どうしてこの手を下せようか。
「この女を反逆者として連れて行け!」
 ユギの決定にも、アイシスはただ黙ってナイルの向こうへ目を向けたのみだった。


第四章 ウジャトの欠けたる眼


 セトの船とユギの船の間に、再び軍船が舳先を並べた。仕切り直しだ。
「風が弱まったか。投石器も先程のようにはいかないだろうな」
 ユギが舌打ちをする。その傍にアメン=ラァの大神官が近付いた。
「先程のお母上の行動は拙い。神妻様の御心、即ち全ての神官を統べる方の御心が、あの悪しき王の上にあるかのような錯覚を、人々に与えかねませんぞ」
「解っている! だがどうしろと言うのだ」
 アメンの神妻を盾に中央突破。その策を失ってしまえば、ユギ軍は赤子も同然であった。元よりろくな戦略も無く、兵の数とて国家の軍には敵わない。
「風を待つのです。それ以外に、方策は御座いませぬ」
 高くなる陽の下で、両軍はじっと睨み合った。平時ならば暑さを避けて午睡に入る時間だったが、ユギもセトも船上を離れない。辛うじて日除けの扇が彼らに翳されたが、上がり続ける気温は止まらなかった。
 ユギは、ヘイシーンの言葉通り、風を待っていた。風は下流から、ユギ軍の側からセト軍の側に向かって吹く。風が強まれば弓を射るにも投石器を使うにも有利だ。数の差も、それ以前に射程の差があれば、どうにか誤魔化せる。
 風。風さえ吹けば――
 祈るような気持ちで前方を見据えていたユギの頬を、ふいに、背後からの強い気流が掠めた。待ち望んだ風。一瞬そう思い、だが、彼はすぐ異変を悟った。
 風ならば何故頬だけを掠める? 風、それも強風ならば、全身が涼やかな空気の流れを感じていなければおかしいではないか!
 風の吹いた方角を振り返ったユギの目に、地平線が砂煙を上げている様子が映った。強風で地面の砂が巻き上げられるのはよくあることだ。だが、その砂煙はあまりに広範囲に、あまりに高く、巻き上がっていた。
「あれは……」
 兵士の一人が不思議そうな声を上げ、全員が、その砂煙に気が付いた。それは瞬きするほどの間に見る見る近付き、轟音を響かせ始める。砂煙の中央から、二筋の光が飛び出した。それが矢だと解ったのと、ユギが横転して倒れたのはほぼ同時だった。
「陛下!」
 兵士たちが駆け寄った。中にはアンプも混ざっている。ユギの、顔を抑えた手のひらの隙間から、赤い血が流れていた。
「もう一人のボク!」
「大丈夫だ、避けた。当たっていない。少し目の傍を掠っただけだ。それより今のは」
 兵士が差し出した布で瞼の上を抑えながら、ユギは立ち上がった。血を拭い、薄く目を開く。砂煙は間近に迫り、薄っすらと、煙の内部が見え始めていた。
「馬だ! 戦車隊だ!」
 誰かが悲鳴を上げる。敵陣では、歓声が沸き起こっていた。
 突進してくる戦車隊は、三つの隊が寄り集まったような陣形を取っている。その各々を率いているのは女だった。白い肌の女が、隊の先頭で弓を引き絞っている。女の力で、まだ距離もあるというのに、届く筈が。そう考え、それから、ユギは瞼の傷に触れた。
 まさか。だが、さっきこれを射たのは誰だ? 今よりも開いていた距離から、誰が射たのだ。
「帆を畳め! 錨を揚げろ、いや、切れ!」
 呆然とするユギに代わってヘイシーンが指示を飛ばす。矢が女たちの手許を離れた。
「全軍撤退!」
 矢は凄まじい速度で船体に突き刺さった。女たちが、先程より上方に向けて矢を番え直す。
「撤退だ! 早く船を出せ!」
 ユギが叫ぶ。岸では、列をなす戦車隊の乗り手全てが、弓を引き始めていた。


 ユギの船はナイルの流れに乗り北へ逃げ帰った。恐らく、宣戦を布告した地イウヌウに落ちて行くのだろう。これでメンネフェルは当面心配無い。あとは王子たちをどう取り返すかだが――
 考えながら船着き場へ降り立ったセトを、アシュの女主が出迎えた。
「ネケトネチェル」
「ハトウアレトから戻る途中、北支流の町でザウからの商人に話を聞き――胸騒ぎに駆けて戻った甲斐がありました」
「あぁ。本当に。あと数時間でも遅ければどうなっていたことか。ところで」
 セトの目が、ネケトネチェルの後ろの二人を戸惑うようにして見た。どちらも彼女によく似た白い女だ。
「私の姉妹族の長たちです。主にはシュメールの地域で暮らし、時期によっては扇状地で行商を行うものたちです」
 ネケトネチェルが言い、二人の女が礼を取った。
「タァウイの陛下。陛下の族の神の陪神に仕えるアスティルティトの族長、アズラエルで御座います。お国の言葉で申しますならばネブトアンク、どうぞそうお呼び下さい」
 右側の女がそう言うと、左側の女も一歩前へ進み出た。
「同じく、アスティルティトの族とともに貴方様の族の神の陪神に仕える、アナトの族長、イブリースと申します。どうぞセトアントと」
 女たちの差し出した手を一度ずつ握り、セトは戦車隊を振り仰いだ。ネケトネチェルが頷く。
「ざっと馬四千五百騎。後方にはもう三千八百残しています。お約束していた王都のための食を積み、後方の騎馬も今にやってくるでしょう」
 そうでした、とネブトアンクが声を上げた。
「メンネフェルに生い茂る草を頂けるというお約束なのだとか。馬を放してもよろしいでしょうか」
「壁の周りからナイルの川岸まで、全て頂けるのですか?」
 セトアントが期待に満ちた声で問う。
「なるほど、それでアケトまでの草地をと」
 いつの間にか傍へやってきていた黒い男たちの隊長を、セトはちらりと窺った。
「牛や羊の分は壁の内に充分な量が御座います」
「そうか。では、全てだ。壁の外の分であれば全て、そなたらの馬の好きにさせるがいい」
 傍で聞き耳を立てていたものたちが喜び勇んで駆けて行く。すぐに、草地へ馬が放された。


 一方。
 ユギの船はナイルを北下し、イウヌウを目指していた。その船室で、彼の治療が行われている。
「ちょっと、駄目よユギ。動かないで」
 両目の瞼に何やら粘性の薬を塗りたくりながら、そう抗議したのはネフトだった。デプで別れた筈の彼女は、どうしたことか、再びユギの前に現れたのである。
 どうしたことか――そのわけは、ウアセトに残った筈のアイシスが、ユギの軍船にいたのと大して変わらない。ネフトだけでなくジョーノもだが、王宮の事情に疎く、それでいて、或いはそれ故、ユギを全面的に味方する彼らは、都合の良い側仕えとしてアメン=ラァに拾い上げられたのだ。
「ほら、じっとして。目だって傷付いてるのよ。失明するようなものじゃないって話だけど、ちゃんと治療しなくちゃ」
 白い女たちの矢は、刺さらなかったが、ユギの目の真際を切り裂いていた。薬の上から布が当てられ包帯が巻かれる。視界が狭い。
「くそ、これじゃ目墨も引けない」
「仕方ないじゃない。薬に石の粉が入ってるし包帯で影が出来るから、虫や陽射しを心配する必要は無いと思うわよ」
「威厳もへったくれも無いけどな」
 目化粧はおろか、巧く飾り髪を付けられるかも怪しい。町の子ならそのような格好も許されるだろうが、王侯貴族にとって、それはみっともないことだ。
「別に、威厳なんていいじゃない」
 ネフトが呟いた。声の調子が、先程までとは違った。
「ユギがお父さんの仇討ちをしたいっていうのは解るの。けど、最近のユギを見てると、もうやめてって、町に遊びに来てた頃に戻ってって言いたくなるの。ねえ、お父さんの仇討ちをするのはいいわ、でも、お母さんはどうするの?」
 反逆者として連れて行け。ユギがそう言った通りに、アイシスは今、船内の一室へ閉じ込められている。直接的な拘束こそされていないが、そこは通常、捕虜を乗せるための部屋だ。
「配流にする」
 ユギは、一瞬躊躇ってそう言った。
「放っては置けない。敵の、それも首領を逃がしたんだ。母上でなければ、その場で首をもって償わせるところだ」
 神妻の地位を取り上げ、彼女がもう神官の代表でもなんでもないことを示さねば、味方の結束に揺らぎが出るかもしれない。神妻がセトを庇った。その事実は、そのままにしておくには重過ぎる。
 ネフトが浮かない顔をしていたが、ユギは構わなかった。


 一刻後、ユギの言葉は実行に移された。
 アイシスには葦の小舟が渡された。それでどこへでも好きに去れというのだ。彼女が船を降ろされたのは扇状地の要だった。本流を溯るか、数多の支流の一つに舟を浮かべるか。どこへでも、行けた。
 さぁ、どこへ行こうかしら?
 アイシスは心細さを紛らわせるかのように考え出した。一番近く――ラァの神域都市イウヌウは当てにならない。あそこへはユギたちが入るのだろうし、そうでなくても、ユギ側でもセト側でもない半端な身を、なんの縁も無く受け入れてもらえるとは思えない。
 ベヘデトは――家の領地は遠過ぎる。本流を殆ど登り切らなければ帰れない上、帰ったところで歓迎されるかは分からない。あの家は早々にセトへ忠誠を誓ったのだ。
 それならば、いっそ、メンネフェルは? 思い掛け、アイシスはかぶりを振った。それは駄目。それをしては、取り返しの付かないほどユギと対立することになる。ジェドゥ。これも良くない。アンジェティもベヘデティと並び我先とセトに下った筈。
 ケムとは戦ったばかり。ペルソプドゥとは北方政策の件で折り合いが悪い。ペルバストやペルアトムとも。扇状地の東側はどこもそう。西側――もう一度デプ? それとも――
 ジェフウト。
 唐突に、アイシスの脳裏をその地名がよぎった。
 セトの側にいらっしゃるなら、ユギと戦わずに済むよう使者の役くらいなさった筈だわ。ユギの側にいらっしゃるなら、あんなお粗末な戦略お許しにならなかったでしょう。
 シモン・ムーラン・ジェフウティ。菜料地にいらっしゃるのね。中立を保って、ことの成り行きを見ていらっしゃるのね。その領地の神がごとくに、遠く眺めていらっしゃるのね。
 アイシスは中央支流に向かって舟を漕ぎ出した。迷い無く、真っ直ぐに、舵が取られる。
 太陽が沈み出していた。月の時間が、近付いている。


<BACK NEXT>

ネブトアンク:「生命の支配者」の意。「生命の支配者」はアラビアの天使アズラエルの称号の一つ。
セトアント:「セトの僕」の意。一説によれば「セトの僕」はアラビアの天使イブリースが堕天した際の別称アル・シャイターン(サタン)の語源。