セネト・パピルス 37
2010/5/7


 翌朝、イウヌウはユギたちを町へ入れなかった。ユギたちの軍船はイウヌウの手前に設けられた関所で止められ、陸に下りることすら認められなかった。関にはラァの神官が使わされていた。
「ふざけるな! 何が通さぬだ。我々はイウヌウで挙兵しこの関を抜けメンネフェルへ向かったのだぞ。それを、送り出すだけ送り出して、負けて帰ればもう入れぬとは。貴様ら、その忠節の薄さをマアトに恥よ!」
 ユギの罵声を浴び、だがラァの神官は取り乱さない。
「我らの忠節はラァのもので御座います、アメン=ヘテプの王子」
 ラァ神官は涼しい顔で続けた。
「それ故、全神殿の統括たると万神が認める神妻様のいらした先頃は、ラァが認めたように我らも神妻様を認め、貴方様をラァの都イウヌウへお迎え致しました。しかし、今、貴方々は神妻様をお打ち捨てになったと仰られる」
「ならば、こちらが母を連れ戻し神妻に復位させればそれで満足か」
「いいえ。お母上は戦いにおいてセト・ヌブティの上に御意を示されたとの話ではありませんか。さならばお母上が神妻にお戻りになった暁は、神妻の御意はセト・ヌブティ陛下の上にあるということになりましょう」
 ユギは包帯の上から頭を掻き毟った。セト・ヌブティ陛下! 陛下! あの妄王を陛下だと!
「黙れ! その口を閉じろ! 神妻がおらずとも我が軍にはアメン=ラァの加護があるのだぞ。王都の、国家の神の加護が! 国家の神を認めぬとでも言うのか!」
「アメン=ラァの国家神としての由縁は、アメンとラァ、習合した二神の内、ラァに起因するものに御座います」
 ラァの神官は、なおも平然としていた。平然として、幾らか呆れを滲ませた口調で、言った。
「アメン=ヘテプの王子。アメンによってアメン=ラァを族の神となさる王子よ。貴方様のお言葉を、ラァは聞きませぬ」
 ユギの眼前で関門が閉じられる。東支流への道は、紅海の大港への道は、今、断たれたのだ。
「案ずることは御座いませぬ」
 後ろから、ヘイシーンが近付いてきた。アメン=ラァの大神官は閉じた門に目もくれない。
「多少過酷な道では御座いますが、東の荒野を抜けて上つ国へお戻りになるのです。此度の簒奪は下つ国の賛同者が多かった。上つ国では、今はセトの遣わした新侯らが幅を利かせておりますが、表に表れぬところでアテム様の死を悼みセトに不満を持つものも少なくない」
「そこへ逃げ込めと言うのか」
「さようで御座います。そして、そういったものたちを集め、再びあの偽りの都へ戦を仕掛けるのです」
 ウアセトにはアメン=ラァの本拠もある。できない話ではない。だが、逃げるというのは癪だ。
「ここが耐えどころですぞ、王子」
 不満を面に表した若い王子に、大神官は諭すような調子でそう言った。
 ユギたちは、イウヌウの南で船を捨てた。


 ことの顛末はメンネフェルの新王宮へも伝わり聞こえた。先王妃は神妻の地位を剥奪され行方知れずに。王子たちはラァの神域都市イウヌウで手酷い拒絶を受け東の荒野帯へ。
 初め噂としてセトの耳に入ったそれは、その数日後、メンネフェルを訪れたラァ神官によって、確たる事実となった。
「ラァの方々がお見えです」
 その来訪をセトに知らせたのはプントの第一隊長だった。
「通せ。大方イウヌウの処遇についてだろう」
「そのようです」
 頷いて男が退室する。セトは腰掛けていた玉座の上で居住まいを正した。王笏を傍らのナムから受け取り、額飾りの緩みを直す。少ししてやってきたラァの祭司は、彼を見上げて腕を掲げた。
「諸国の中で力強き陛下。ラァの下僕は貴方様をタァウイの王と認めるもので御座います」
 祭司が神妻に対するユギの非道を並べ立て、ユギ側からセト側へ陣を変えることの正当性を訴える。
 彼は、この心変わりが確かなものであるとセトに示さねばならない。ユギの送り込んだ罠ではないと、信じられなければ由緒ある神域都市イウヌウの命運はここで途絶えるのだ。
「王子は幼過ぎるのです。考えが浅い」
「ほう?」
「敵将を庇ったものを味方に置いておいては指揮に乱れが出る。それは事実でしょう。ですが、生み育てられた母にすら容赦せぬというのは、更に人心を離れさせること」
 誰が冷徹な君主を好むだろうか。祭司の言葉にセトも頷く。冷酷無慈悲な王よりも、咎人であっても母には手を下せぬと涙する王の方が、どれほど臣民の共感を呼ぶだろう。咎が、人の情から出たものであれば、なおさらに。
「我らのマアトはラァに従ってある。故に、先だってはラァの意思通り、神妻様を擁する王子たちの軍をイウヌウに迎え入れました。しかし神妻の地位が空白となった今、我らは我ら自身のマアトに従って貴方様への従属を誓い立て申すのです」
 祭司が言葉を区切った。その時だった。
「笑止なるかな、老いたる都の人」
 王座の後ろから、暗い声が発せられた。イウヌウのラァ祭司が目を剥く。
「ナム。客人に対し何ごとだ」
「陛下」
 ナムが黙り込んだ。瞳孔の小さな瞳が左右に忙しく動く。躊躇っているようだった。だが、次の瞬間、意を決したように彼は口を開いた。ラァよ、と、その仕える神の名で祭司を呼ぶ。
「ラァよ、貴方の言い分がボクは気に喰わない。己の神都に大裁判所を持つ身ながら、自ら断じることをせず、自身の意見というものも持たず、情勢に流され言を二転三転させる。そのどこにマアトがあるというのか」
 彼の心の内には、姿を消した、先の王妃がいる。尊き身分でありながら、結局は時代に飲み込まれてしまった王座の女。ラァがユギ受け入れの建前とし、またユギ追い出しの理由にもし、それでいて助けの手を差し伸べはしなかった女。
「貴方々の言葉が真にマアトから出たものならば、何故、ホルサイセたちを締め出したその時に、神妻様をお助けしなかった。その王位を認めぬのは、彼らの行った神妻位剥奪を認めぬのと同じことであろうに」
「それは」
「ラァよ、貴方の神殿は今や空虚だ。貴方々に、もはや往時の威厳は見当たらない。自らの衰退がため強きものに従うしかなくなった、それだけのことを、マアトなど耳障りの良い言葉で飾り立てるのはやめられよ。そして」
 ナムが玉座の王を見上げた。セペデトに似て、しかし幾らか赤みの差した、宵の星のような瞳がセトを射る。
「陛下。我が育ての、父であり父でなき人よ。ボクはホルサイセやアンプのように馬鹿じゃない。全て解っているつもりです。そして、だからこそ、ボクは貴方のやり方も」
「気に喰わないと?」
 一拍置かれた言葉を、セトが先んじた。
「王妃様には――先の王妃様には、何も咎など無かったではないですか。ホルサイセに反せず、だが貴方を助けた、その気持ちがボクには解る。対して、貴方は、助けられたことへの報いも無いのですか」
 セトは答えない。ナムが嘆息した。吐き出された息は、失望の色をなしていた。
「貴方もラァと同じだ。貴方の行いにもマアトは無い」
 ナムが玉座の脇を通り抜け、ラァ祭司の跪く広間へ降りた。
「どこへ行く」
「西へでも」
 死を思わせる言葉にセトが眉根を寄せる。死ぬのではないと、ナムは付け足した。
「ただ、ボクは、ボクたちはもう、貴方々に振り回されるのは御免なのです。貴方が国家と王に振り回された、そのことには同情する。けれども、貴方だってボクたちを振り回したのだ」
 王妃が玉座の飾りでしかなかったこと。ナムの、運命というその名の意味。
「西へ、ウアセトの西岸にでも行くとしましょう。『父上』が、イアル野か、冥界の暗きところか、どこにいらっしゃるか知らないが、あの死者の領域ならばどこにいらしたとしてもその眼によくよく見えるだろうから。そこで墓守にでも身を落とします。かの重たい心臓ですら痛みを感じるよう、食すらままならず腐肉を漁り、職の禁忌故に陽も浴びられぬ、西岸の墓守に!」
 言うなりナムが王の間を飛び出す。ラァ祭司があっけに取られたように口を開けて彼の背を見送った。
「追いますか?」
 影のように控えていたプントの男が、努めて事務的に問うた。セトが首を振る。
「追わぬ方が、いいだろう」
 放って置くよう命じられ、男は再び影へと戻った。ナムは、ユギやアンプとは異なる。彼には王座の女の血が流れていないのだ。どこへ行かれようと問題は無い。主が追わぬというのならそれでよかった。
「さて、ラァの祭司よ」
 セトが王笏で床を突いた。ぼうとナムの出て行った方角を見ていた祭司が慌てて振り返る。
「今、神妻の地位は空白だ。そうだな?」
「は――はい、はい陛下」
「先の神妻アイシス・アメン=ヘテプはどこにいるかすら定かでなく、後継を立たせようにも、王家にその資格を持つ女は他にいない」
 神妻の地位は、死して神となった王の妻であったものか、王座の女でありなおかつ未婚の乙女であるものにしか許されない。だが、当代に未婚の王座の女はいないのだ。
「私が冥界へ下りマナが神妻となるか、王家に新たな娘が生まれ育つか、いずれにしても数年のことではないだろう。その間、ラァよ、そなたのマアトは私に捧げられたと思ってよいのだろうな?」
 冷ややかな天青石の瞳が祭司を見下ろす。ナムの責めなど無かったかのように、王はそう問うた。
「勿論、勿論で御座います」
 マアトに反し、それをものともしない王へ、ラァ祭司が賛美の腕を差し翳す。
「我らイウヌウのラァは、一同、メンネフェルの良き王セト陛下がタァウイの舵を取ることに賛同し、それを喜びと致します」
 彼の、指先は、震えていた。


 同じ頃、ユギたちは東の荒野を行軍していた。乾期シェムウの陽射しが歩く人々の上に降り注ぐ。船を捨てた彼らには、殆ど、驢馬も輿も残っていなかった。老年のもの、先の戦で傷を負ったものを優先した結果、ユギでさえ日除け布を被ったきりの格好で荒地を歩かざるを得なくなっている。
 別に、それは不満ではないのだ。ユギは熱気立ち込める大地を踏み付けながらそう思った。老人や怪我人が優先されるのは当たり前のことだ。自分だって傷を負いはしたが、目の傷など歩くには関係無い。他にも、軽傷だからと歩かされているものはたくさんいる。不満なのはそこじゃない。
「なんだよユギ、難しい顔して」
 肩を叩かれ、ユギははっと顔を上げた。
「ジョーノ君」
 アンプにネフトも並んでユギを覗き込んでいる。
「何考えてたんだよ。王子様がそんな顔してると皆近寄り難くて困ってるじゃねぇか」
「いや。済まない、大したことじゃないんだ。ただ」
 日除け布で影を作りながら、ユギは空を見上げた。今日は殊更に太陽が大きく見える。照り付ける光は容赦無く、人々の体力を奪いつつあった。
「この太陽。まるでラァの呪いのようだとは思わないか。オレたちの行軍が始まってこの方、陰ることを知らないとは」
 行軍が始まってということは、ラァの神域都市イウヌウで神官と衝突してからということでもある。
「考え過ぎだよ、もう一人のボク」
「だろうか」
「そうよ。きっと、疲れて気が滅入ってるんだわ。次の井戸では長く休みましょ」
 ネフトが遠くを指差す。まだそれが何か判らない、地上の黒点としか見えないものがそこにあった。
「お、やっと水汲み場か」
 まだ見えない、だが、数日の経験から、それが何かは容易に知れた。ネフトが指したことで後続の人々もそれに気付く。
 幾人かが走り出した。まだ距離はあるというのに、喉の渇きに耐えかねたようだった。
「皆まだ走る元気があるなんて凄いや」
「ま、急がなくたって井戸は逃げやしねぇよ」
 疲れた様子のアンプの背をジョーノが励ますように叩いた。走らずとも、見え出せばもう近いのだ。


 水汲み場には、屋根があったが、それは小さかった。渇きを満たした人々は、今度は、日陰の取り合いで諍い出した。
「こう暑いと苛々もするよね。何か気晴らしでもあればいいんだけど」
「本当。――踊りでも披露しようかしら? ラァ賛歌辺りを、少し変えて」
 言って、ウアセトの踊り子は日向へ舞い出た。何ごとかと人々が目を向ける。美しい衣装も何も無い。薄織りの衣の変わりに日除けのぼろ布をひらりと翻して、彼女は踊り始めた。
 偉大なるラァ、どうか機嫌を直して。貴方が偉大なことは充分に知っているの。だからもうそのご威光を引っ込めて下さって構わないわ――。
 ラァ賛歌の曲に乗せて、彼女は出鱈目な歌詞を口ずさんだ。即興の歌だ。繰り返す度に少しずつ歌詞が変わった。
 曲は誰もが知っている。周囲の人々が、またどこか違う替え歌を思い思いに歌い出した。ラァよ、ラァよ、声がしだいに大きくなっていく。娘たちの中にはネフトに並んで踊るものも現れた。
「おい、空を見ろ!」
 歌が何周目かに入った時、一人の男が天頂を指差した。
「雲が……」
 彼の指先で、見る間に太陽が姿を潜めていく。分厚い雲が、いつの間にか、流れてきていた。
「あの少女は何ものなのです?」
 一人の士官がユギの側へ近付いてきて聞いた。
「ネフトだ。ウアセトで踊り子をしていた」
「本当の名は?」
 果実の名称が本名である筈はない。偶然か、魔術の素養があるのか、いずれにしても人の気分を上向かせたという点において偉大な少女の名を彼は知りたがった。
「アンズ」
 ユギは、眉を寄せて少し考えるような素振りをしたあと、そう呟いた。
「アァ=ン=ジュウ、罪の偉大なるもの――あまりいい名じゃないな。だから、ネフトだ」
 士官に答えるとユギは屋根の下から曇天の下へ向かった。先ほどまでの呪い染みた陽射しは感じられない。騒ぐ人々の中、ネフトと、その隣でアンプが、手を振って彼を呼んでいた。


<BACK NEXT>

アァ=ン=ジュウ:「罪の偉大なるもの」の意。