セネト・パピルス 38
2010/5/9


 数日後、ユギたちの進路は上つ国の中腹、イアケメト侯の領地に向けて取られていた。
「ウアセトへ直接ではないのか」
 休息の折、大神官から今後の道程に関する進言を受けたユギは、広げられた地図の、王都として記された位置を指で叩いた。地図は少し古く、示された場所はメンネフェルでなくウアセトである。
「遠く見えるが、ウアセトならここから直線で行ける。イアケメトなら迂回路だ。距離はそう変わらないのではないのか?」
 ウアセトに行けばアメン=ラァの本拠がある。セトに置いてゆかれたかつての官僚たちだって、自分たちの帰還を待ち侘びている筈だ。ユギの主張に、ヘイシーンがかぶりを振った。
「いいえ、王子。直線ではない。その道は無理なのです」
 大神官の指が現在地からウアセトへ滑っていく。真っ直ぐに動かされた指先は、ウアセトの手前で止まった。
「ここです。上つ国第五州ビクイの州都ヌブト。セト・カスト・ヌブティの直轄領が行く手を阻む」
 ウアセトのナイルを挟んだ僅かに北。一直線にウアセトへ向かったのでは、涸れ谷と呼ばれるかの地の要所を越えねばならない。紅海に通じ、それ故異国の脅威に対する備え甚大な場所を、少数の兵で突破しようなど無茶だ。
「一度イアケメトへ出、ヌブト領を避け西岸から南へ。案内人の当ては、イアケメトのネムティ神殿が、既に我らの仲間としてあります」
「イアケメトのネムティ?」
 ユギが懐疑の声を上げた。イアケメト侯もネムティ大祭司も先の造反でセトに付いたものの一人だ。イアケメト侯領へ行くというだけでも不安であるのに、頼りの味方がネムティ神殿だとは。
「何、ご心配なさらずともよい。お母上を――結果としては残念なことになりましたが、ケム戦に間に合うようお連れしたのも彼ら。信頼の置けるものたちです」
 どこか含みを持たせた調子でヘイシーンはそう告げた。ユギが鼻を鳴らす。
「ラァの時のようにならなければいいがな。まあいい、進路は西だ。イアケメト侯の目を掻い潜り、ネムティのものどもと落ち合う手段は、無論、考えてあるのだろうな」
「それはもう、無論のこと」
 大神官が手を鳴らす。少し遠いところで固まっていた神官の一団から、重々しく身を飾り立てた男が一人、それに応じやってきた。
「マアティス、王子たちにイアケメト行きの支度をして差し上げるように」
 正義真理を意味する、北方風の名だ。マアティスと呼ばれた男は、ヘイシーンの言葉に頷き、ユギへ向き直った。
「では、幕をお張りしますのでこちらへ」
「幕?」
「着替えで御座います。身分を示すものは外し、行商人の格好へ。後ほど側仕えの方々にもそうして頂きます」
 男が数人の神官に声を掛ける。幕の準備が始まるのを眺めながら、ユギは横に立つ上位神官を見上げた。目立つ華美な格好は行軍の最中には何度か視界に入っていたものだが。
「マアティスと言ったな。聞かない名だ」
「私が王都にいたのは王子がお生まれになる前のこと、名をご存知で無いのも道理でしょう。先ほどまでは西の砂漠にて、王墓警護の方々ととも、偉大なる先王アクナムカノン陛下に仕えておりました」
 男は、ユギの見も知らぬ祖父を先王と呼んだ。セトの治世を認めず、今はまだアテム・アメン=ヘテプの時代だと、言外に告げている。気付いてユギは機嫌を良くした。
「許せぬのはセト・ヌブティの恩知らずなることです。かつてヘイシーン様の口添えで王宮へ上がり、アテム陛下の思し召しで王宮域に邸宅を構えるまでとなったあのものが、陛下を亡きものにし、またアメン=ラァを捨てようともしている」
「全くその通りだ」
 ユギが頷く。
「父上の重用に付け上がり、王座まで奪うとは、許せぬことだ」
 憤りを口にする王子の横顔を、離れた場所からヘイシーンが窺っていた。少しして、大神官がそっと瞳を動かす。己の部下マアティスと交わした彼の視線には、何か、笑みのようなものが漂っていた。
 五日後、彼らはイアケメト領の外れに辿り着いた。


 ユギの軍は、一度解散させられた。イアケメト領内へ入るに当たって、小規模とはいえ、軍を率いていたのでは目立ってしまう。全ての兵士を変装させるわけにもいかない。軍として小規模な人数も、他の集まりに見せ掛けるには多過ぎるのだ。
「そもそも、密かに動かねばならぬのは妄王セトとその仲間に顔を知られたる我らだけ。兵士はそれぞれに別の道からウアセト入りすることになんの労苦も無い」
「だから、これだけか?」
 二人のユギとジョーノにネフト、それにアメンラァの神官たち。ネムティ神殿へ向かうこととなったのはほんの数人だった。彼らは神殿に出入りする常の商人を装い、迎えの男の後ろを付いて歩いている。
「ご不便には少々のご辛抱を。ウアセトへ帰るまでのことで御座いますから」
 マアティスがそう宥める。不服ながらもユギは頷かざるを得ない。
「帰るまで、な。ふん、そう長くも掛かるまい」
 だが、ユギの読みは、このあと大きく外れるのだ。


「なるほど、それが信頼の正体か」
 ネムティ神殿へ着いたユギは、行商人の荷物に見せ掛けられていたものの中身を知るや、そう呟いた。
「いやはや、そう大袈裟なものでは。ただの宿泊費ですとも」
 小声でユギに答え、ヘイシーンがネムティの大祭司に近付く。
「ここなるアメン=ラァの財をもって王子方の滞在及びウアセトまでの道の費とさせて頂きたい。そなたらの神のご意思はいかがか」
 問答など形式だけのことだ。大祭司はそれを受け入れ、煌く金細工や石の装飾が奥へ運び入れられる。
「王子方はどうぞこちらへ。側衆の二方も。今宵はゆっくりとお休み下さいませ。ウアセトまでの船の用意を今しておりますから」
 連れて行かれた部屋に、ネフトが歓声を上げる。
「広い部屋! それに、見て、この白く光る飾りとても綺麗だわ」
 壁に掛けられた隼の像をネフトが指す。磨き抜かれた銀の表面に、彼女の指先が映った。
「銀の神像……そうか、ネムティといえばセトの族神とは――」
「ユギ?」
「いや、なんでもない。だが、ここは確かに安全なようだ。皆、今日はゆっくりと休もう。久し振りの寝台で」
 ユギの一言に彼らは疲労を思い出した。そうだ、今は部屋の豪奢さよりも休息だ。
 四人はそれぞれ用意された部屋の寝台へと潜り込んだ。


 ウアセト行きの船の支度が整ったのは翌日昼過ぎだったが、ユギたちがその船でウアセトへ行くことは叶わなかった。ユギたちは船に乗り込み、ウアセトへ向け帆を張ろうとしたが、それを阻む自体が起こったのである。
 ヌブトが近隣諸州を巻き込んで軍事演習を開始した――その報せが入ったのは、まさにユギたちが出航しようとしたその時だった。
「これは時期が悪い。ヌブトの北で船を降りウアセトへ向かう計画が崩れましたぞ」
「ならば暫くネムティ神殿に滞在か?」
「いえ。それも拙い。本当に時期が悪いだけであれば構いませぬが、万一、我らの動きが漏れた結果であれば」
 急遽、船の帆が畳まれた。ナイルの上には、常に、上流へ向かう風が吹いている。帆を畳むということは、行き先を風頼みの上流から流れ頼みの下流へ変えることを意味する。
「どこへ向かう」
「一先ずはシェへの支流へ。急がなければ、本流からメンネフェルの船が来て、鉢合わせでもしては」
 慌しく、目的地も定まらぬままに船が出された。何かがおかしいと、ユギに気付く暇は無かった。


 メンネフェルは、大神官の危惧の通り、事態の全てを感知していた。王都からの船がイアケメトへ送られる。それにはセト本人が乗り込んでいた。イアケメトの船着き場に、二人の白い女と黒い男たちを伴ったセトが立つ。
「おお、おお、陛下。お待ちしておりました」
 出迎えはイアケメト侯その人だ。自らの領内で起こったネムティ神殿の不信な動きについて告げたのもまた彼である。
「侯。早速だが、ネムティ神殿まで我々を案内してもらえまいか。ことは一刻を急くのでな」
「は、神殿はここより幾らも歩かぬところ。直ちにご案内致しまする。――歓迎のものどもは下がれ、陛下は急ぎの御用で参られたのだ」
 イアケメト侯の言葉通り、ネムティ神殿は船着き場から乗りものすら要らぬ距離にあった。優美な塔門の下で、プント兵が声を張り上げる。
「戸を開けよ! メンネフェルの良き王セト陛下がそれをお望みである!」
 侯や騒ぎを聞き付けたものたちの眼前で、銀の扉がゆっくりと開いた。
「これは、陛下に、侯に、お揃いで。いったい何ごとです?」
 扉を開けたのは少し老い始めた年頃の男――ネムティの大祭司だった。
「何ごとかはご自分の胸にお聞きすればよろしいのではなくて?」
 王でも侯でもない。答えたのはセトの傍らに控えていた女の内の一人である。
「セトアント。まだ罪の確定したわけではないものをそう怯えさせるな」
「罪、罪と申されましても、私には全く心当たりが……いったいどのような罪を私が働いたと仰るのでしょう」
 もう一人の女、ネブトアンクが扉に手を掛けた。青い瞳が老人を冷たく見遣る。
「そこを通しなさい。私たちはそれを検分しに来たのです」
 女たちの容貌に、大祭司は黙って扉を開けた。もしセトの供がタァウイの人間だったならば、祭儀を理由に逃げることも叶っただろう。だが、この異国の女たち相手に神を盾としたところで、退けられるに違いないのだ。
 イアケメトへ、アシュの女主ネケトネチェルは来ていない。だが、かつてウアセトで見たその女とよく似たこの女たちが、彼女と全く異なる信心ものであるとは、大祭司には思えなかった。
「では入らせてもらうとしよう。手向かうでないぞ」
 プント兵が神殿へ雪崩れ込んだ。そのあとへ、セトと女たちが続く。
 黒蛇たちによって神殿内が検められる。だがネムティも、この事態は、ヌブトがウアセトの周囲で軍事演習を開始した時、既に予測していた筈だ。証拠など疾うに始末されている可能性は高い。そして実際、ネムティ神殿はそうしようとしていた。
「陛下」
 何も出てこなければ許すしかない。セトが苛立ち始めた時、一人の黒蛇が彼の側へ駆け寄った。
「供物台の裏にこれが」
 黒蛇の手から、何か小さなものがセトへと渡る。それは王の白い手のひらの上へと、光を放ちながら転がった。
「指輪? 金の指輪か」
 セトはそれを摘むと天青石の瞳の前まで持ち上げた。角度を変えながら指輪を眇める。
「さて、ネムティよ。出てきてはならぬものが出てきたな?」
 セトの王笏が床を打った。
「そなたらの神は、神々の時代、黄金の賄賂によって我が族の神を裏切り、厳しく罰せられたものであったと記憶している。その後、自らの不正を恥じ、一切の黄金の奉納を断るようになったとも。何故そのネムティの神殿に黄金が落ちているのだ?」
 大祭司は青褪めて、しどろもどろに、言いわけを口にしようとした。不心得なものの奉納品に紛れ込んでいたのではないか、或いは、参拝者の身から落ちたものではないか。だが、それはネブトアンクによって遮られた。
「もう一度言いなさい。今度は、そなたの神に事実のみを申すと誓ってから」
 冷たい声だった。大祭司の身体に震えが走ったのを、誰もが見た。
「アセト女神に愛されしもの。内側にはそう彫り込まれているな。印章部の有翼日輪はベヘデティの家紋。ベヘデティ家の、王座の神の加護を受けたもの。これはアイシス・ベヘデティの持ちものではないのか?」
 セトが問う。大祭司も他の神官も、もう何も言えなかった。
「足先を切り取る刑に処す。その神と同じ報いを受けよ。懲りぬものめ!」
 金の指輪が大祭司に向かって投げ付けられる。老人が受け止め損ねたそれは床に落ち、甲高い音を響かせた。


 刑はすぐさま執行された。イアケメトの官吏が笞を持ってやってくる。笞。足先を切り取るとは、言葉の通りの刑ではないのだ。ただ足の裏を笞で打つだけの――無論激痛が伴い皮膚が裂けるくらいのことはままあるのだが――その場の痛みだけの刑である。
 かつてセトの族神を裏切ったネムティ神と今セトを裏切ったネムティ神殿を引き比べての、皮肉のようなものだ。王を裏切ったものへの刑としては軽い。
「陛下、まさかこれでお許しになるわけではないと思いますが、今後の処分はいかが致すのです?」
 ネブトアンクが大祭司の悲鳴の合い間を縫って王に問い掛けた。セトアントも頷いて同じ疑問を示す。
「神殿は取り潰しだ」
 低い声が冷徹に告げた。
「大祭司、上位神官は国外追放。下位神官はイアケメト侯に預ける」
「充分でしょうね」
 大祭司の既に裂けた足の裏へ、最後の笞が振り下ろされた。六つの青い瞳が、瞬きもせずにそれを見届ける。刑が終わった。


<BACK NEXT>

イアケメト:地名。現在地不明。上エジプト中部、東岸に存在したと思われる都市。