セネト・パピルス 39
2010/5/16


 イアケメト侯の顔を立てる形で二日ばかり彼の州に滞在してから、セトたちはメンネフェルへ帰還した。留守中王都の押さえとなっていたアシュの一団が、壁の内へ着いた彼らを迎え入れる。
「首尾はどのように?」
「良いとも悪いとも言える。ネムティの裏切りは確定したが、王子たちの行方は依然として不明だ」
 セトの答えにアシュの女が眉を寄せた。彼女は何ごとか躊躇うように唇を開け閉めし、それから一つ頷いた。
「それにしても、おかしなこととは思いませんか。先の戦いも、この度のウアセト帰還計画も、考えてみればアメン=ラァのやり方は粗末に過ぎます。彼らの溜め込んだ財があれば、もっと巧くやることだって可能だったでしょうに」
 セトの後ろで姉妹族の二人が顔を見合わせた。王の、孔雀石の目墨に大きく縁取られた瞳がゆっくりと閉じられる。合わさった上下の睫毛が、蝶の羽のような影を白い頬に落とした。
「全てわざと、何か罠を張っているのだと? だが、ここでの敗走も、ウアセトへの帰還ならぬことも、彼らに取っては不利な事象ではないか」
「ええ――いえ。例えば、これは仮定の話ですが、陛下と王子が決め手に欠くまま戦い続け、両者がともに疲弊したなら――、ウアセトへ帰らぬのも、そこが、彼らの都が、万一にも戦地になっては困るから――」
 ネケトネチェルがセトを見上げた。
「そうは考えられませんか」
 四者の間に沈黙が降りる。少しして、セトが長い睫毛を瞬かせた時、その音が聞こえる気がしたほどの静けさだった。
「となると、ネムティに身を寄せたと解るよう動いたのもわざとか」
「かもしれません。本当に身を隠したかったのならイアケメトへ近付く前に軍を解散していたでしょう。領内に入ってから商人などに化けたところで、どうしたって人目には付くのですから」
 セトが俯き口元に手をやった。
 アメン=ラァ。ネムティの元からは船を使って去った痕跡が残っていた。ウアセトへは行けぬ。ここメンネフェルを越えさせは、私がしない。奴らの取れる道は実質シェへの支流一択。支流へ何をしに行く? シェは穀倉地帯だ。立て篭もるつもりか。 だがそれならばシェへ向かったという痕跡を消していくべきではないか? 奴らがわざとらしくシェへ向かったことを示している以上、他に何かあるのではないか?
「――ケメヌ」
 薄い唇から、二つの流れに挟まれた土地の名が吐き出された。ネケトネチェルがはっと顔を上げる。
「奴らは間違いなくケメヌにいる」
「ケメヌに――。ですが、ケメヌならケメヌ公様から何か沙汰があっても良い筈では?」
 ケメヌの司ヘジュウルはともに簒奪の主犯格を務めたものだ。その彼がアメン=ラァに味方しセトを裏切るとは、アシュの女主には考え辛い。
「ヘジュウル・ケメヌも結局はタァウイ人だということだ。神と、正当なる王位の流れと。二つを捨てるのは難しかろうよ」
「では。検めますか? ネムティのように」
 ネケトネチェルはその気のようだったが、セトは彼女の問いを否定した。
「こちらから動くことはしない。ケメヌ公は、信仰と慣習を捨て切れぬタァウイ人だが、それ故に大神殿の暴挙は許すまい。向こうから何か言ってくるまでは静観だ。それに、すぐさま飛び込んでは、それこそ罠だろう。私と、四公家にあって最も位高きケメヌ家を、仲違いさせるための」
 ケメヌへ行ったと悟らせたのはそのためだ。だが乗りはしない。
「我々がケメヌへゆかなければ、アメン=ラァも自分たちの罠が見破られたと気付くだろう。そこからが正念場だな」
 王子を取り戻しその眼を開かせるのが先か、見えざる神がタァウイ全土に覆い被さるのが先か。
「水面下の攻防、ですか」
「その準備をせねばならん」
 王は戻ったばかりの都からナイルへ目を向けた。
「ジェフウト行きの用意を。できるだけ、目立たぬ船を用意せよ」


 その前後、ケメヌ。
「大神官殿。まさか、貴方がこの地をお頼りになるとは」
 突然の、招かぬ来客を、ヘジュウル・ケメヌは己の公館へ出迎えた。まず王子たちに部屋を貸し与え、彼らがそちらへ向かったのを確かめてから、ケメヌ公が話を切り出す。
「私はあの簒奪劇の中心に程近い場所にいた人間だ。私が貴方々を新王の許へ突き出すとはお考えにならなかったのか」
 公の質問に大神官が僅かな角度唇を持ち上げる。尖った顎の強調される、神経質そうな笑いだった。
「さてもさても。貴公はセト・カスト・ヌブティより信心深く、慣わしに意味を見出しておられる。我が方に王子たちがいる以上、貴公の取る態度は一つではないのか?」
「それは――」
 王子たちが質だというのだ。だが、それにしても、この自信はなんだ。ケメヌ公は内心で舌を打った。
 ここはケメヌ、我が町だ。いかにアメン=ラァといえども、ウアセトから遠く離れたるこの地では、大した力を振るえる筈が無いというのに。人質を連れて敵陣に飛び込むというのはあまりに無謀ではないか。もしも私が王子を捕らえ人質としての役割を無きものにすればどうするつもりなのだ。
「もう夜も深い。本日のところは休ませて頂きますぞ」
 その話はいずれと、疑念を差し挟もうとするヘジュウルを遮ってヘイシーンが席を立つ。
 彼には、王子たちとは別の方角に部屋が割り振られていた。さすがに全く油断し切っているわけではないらしく、戸の前に人を立たせ部屋へ入る。
 ヘジュウルは、それを見届けると、灯りを持って王子たちの部屋へ向かった。彼らはまだ起きているのだろう。近付くと、漆喰の壁を突き抜けてその声が聞こえてきた。
 戸を叩く。入れ、と、短くユギが答えた。
「なんだ、ケメヌ公ではないか。こんな夜更けにどうした」
 部屋にはユギとアンプがいた。ユギの左目を、アンプが覗き込んでいる。
「声がするもので何ごとかと。いかが致しました」
「左目が見え辛いって」
 アンプが答える。夜になってから急にそうなったのだと、ユギが付け加えた。
「もう一人のボクはメンネフェルの戦いで目に怪我をしたんだ。それが原因だったらどうしよう」
「どれ、お見せ下さい。多分、鳥目でしょうが……」
 ケメヌ公がユギの瞳を覗き込む。瞼に傷痕があるが、それは完治したものだった。左の目の傷痕は右に比べ幾分大きく残っていて、傷が目を弱らせていたようだとは解るものの、膿んだり引き攣れたりしているわけではない。傷が治るまでに蓄積した疲れと、慌しい船旅での栄養不足が直接の原因だろう。
「やはり、疲れ目、それから鳥目ですな。栄養は先ほど充分に取られた筈、あとはゆっくりとお休みになれば、二、三日とせずに治るでしょう」
「本当? 良かった! ね、もう一人のボク」
「ああ」
 大仰に喜んだのはアンプだけだった。
「それで、ケメヌ公。用件はなんだ?」
 ユギは、見え辛い筈の目で、ケメヌ公を見据えている。声がしたからやってきた? 嘘に決まっている。本当の用件はなんなのだと、ユギはその目に疑心を宿していた。
「ヘジュウル・ケメヌ。正直に致せよ。大宰相の弟子上がりが家を任されたに過ぎぬものを、老爺の意向も聞かず我が父を裏切りセトに付いた。その思い上がり、二度は許されぬぞ」
 二人の間に、探り合うような視線が流れる。傍らでアンプが息を呑んだ。
「思い上がりと仰るか。私の、思い上がりだと」
「違うのか」
「無論。思い上がりと言うならば、それは王子方の方こそでは。いや、お二人が私やセトを父の仇と憎むのは解る。だがそれと王位のこととは話が別」
 セトの王位はマアトに適わぬものであり、正しき王はユギであるべき。この主張には、穴がある。
 一つ、セトが王位を得るまでの行いは確かにマアトに適わぬが、セトの王位はそうではない。王座の女を妻とし、上下両冠の戴冠を済ませ、窓から民に姿を見せた。自らが王たる証立てを、彼はマアトに従って行っている。
 更に、ユギにはいまだ妻も、妻となる予定の女もいない。これではたとえセトから両冠を奪い王妃宮を制圧して窓に立とうとも、マアトに則った即位は不可能なのだ。
 王座の女を妻に持つこと。ユギを王と認める王座の女を、どこかに見付けること。セトと相対する以前の、それは問題であった。
「ユギ・ベヘデティ。貴方はまだアメン=ヘテプですらない。それでどうして王位を寄越せだなどという話が通るのだ」
 公の言葉は正論であった。正論を、ユギは鼻先で笑い飛ばした。
「はは、難しい顔をして何を言うかと思えば。そなたの頭の固さは師譲りか?」
 ユギが立ち上がってヘジュウルに近付いた。肩に手を置き威圧を掛ける。
「婚礼などいつでもできる。アンジェティとベヘデティがセトの手の内に落ちていようとも、ケメヌがオレに協力しなかろうともな。セトより正統な王座の女を、オレはいつでも得られる」
 セトより正統な。ケメヌ公がユギの言ったことの意味を反芻する。正統な。セトの妻たる、王家の娘たる、当代二位の王座の女より正統な、王座の女。
「まさか」
「おおケメヌ公、何を狼狽える? 王位のため母と結婚した例など珍しくもないだろう」
「しかし……先の王妃を追放に処したのは王子自身。メンネフェルのこともあれば、呼び戻すのは難しいのでは」
 呼び戻せば神妻の御意は再びセトの上に移ることになる。メンネフェルの水上戦でアイシスがセトを助けたことは、人の記憶に新しい。
「だから頭が固いというのだ。ケメヌ公。母を呼び戻すからといって神妻の位に復位さしめる必要がどこにある? 神妻位も、王座の女との婚礼も、定めるのはアメン=ラァだ。アメン=ラァに頼めば母を神妻ではないただの王座の女として迎えることなど、造作も無いだろうが」
 それこそ思い上がりだ。そこに正しきマアトは無く、ただ形ばかりを設えたのだと、政に関わるものに限らず、市井の子供にすら解るだろう。それで諸侯や民が付いてくるものか。
 だが、ケメヌ公は言葉を失って何も言えなかった。アメン=ラァの自信の源。敵地に人質ごと乗り込んでくるその自信の源を思い知って、彼は言葉を失っていた。
 王子の心は、今や余すところ無くアメン=ラァのものなのだ。今、王子とアメン=ラァを切り離すことは難しい。アメン=ラァのみを討ち、王子は生かして王にせねばならぬ以上、ユギがアメン=ラァの呪縛から解き放たれるまで、話は進まない。


 数日後の朝、皆が集まる一室へケメヌ公が来た時、ユギは葦の筆を走らせていた。
「おう、ケメヌ公。そなたの書記から借りているぞ」
「それは構いませんが。何を書いているのです?」
「母を呼び戻すための手紙だ」
 問うたケメヌ公には目もくれず、筆先を動かし続けながらユギが答えた。
「目もよく見えるようになったのでな。昨夜も視界は確かだったし、完全に治ったらしい」
「それはよかった」
 筆の先を追うユギの目をちらと見て、ケメヌ公は密かな息を吐いた。
 目は、見えているのだろう。完全に、治ったのだろう。傷は癒え、視界には一片の曇りも無い。ウジャトだ。完全なる眼だ。だが。
 物理的になど、どれほど完全であっても駄目なのだ。王子には、マアトを見る力というものが、欠けている。


第四章 ウジャトの欠けたる眼 終


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ウジャト:ホルスの完全な眼。神話上で、セトに傷付けられたのちトトによって癒された眼を指す。