セネト・パピルス 40
2010/5/22


 我が面布を掲ぐるものは、語るべからざるものを見るべし。


第五章 我が面布を掲ぐるものよ


「よくここを見付けましたこと」
 ザウのネイト神殿前で、アイシス・ベヘデティは数人の黒蛇のみを供に連れたセトを出迎えた。ザウに、行幸の知らせは出ていない。アイシスが身を隠していたのと同様、セトもまた人目を忍びここへ来ていた。
「老シモンに聞いたらすぐに口を割ったぞ。アイシスならばザウのネイト神殿だと」
「まぁ、そう、でしょうね。知らせていいと言いましたもの。貴方には。それから、アメン=ラァでないものには」
 歩きながら二人が話す。最後の部分、神の名の部分を、彼女は殊更に強調して言った。
「アメン=ラァでないものには、となると。ユギとは、連絡を取っていないということか」
「いいえ」
 アイシスがかぶりを振る。ちょうど、神殿の塔門へ辿り着いた時だった。
「さて、申しわけ無いのですけれど、お供の方はここまででご遠慮下さいますかしら。これより先は女神の領域、おいそれと殿方を入れるわけにはいかぬものですから」
 黒蛇の一人が己の主を窺った。セトが軽く頷いて彼らを下がらせる。
「では行きましょう。こちらへ。滞在所は、そこの通路の先です」
 神殿の奥、アイシスが借り受けている部屋は、広くも狭くもないが、よく片付いた清潔な部屋だった。中では、頭を丸めたまま鬘も被らぬ信心深き神官の成りをした男が一人、盃の用意をしている。体躯の良いその男が見た目に似合わず細やかな手付きで杯を並べ終え、一礼をして出て行くと、セトは些か不機嫌な様子で口を開いた。
「男人禁制ではなかったのか。私には供を置かせておきながら」
「勿論、男性の出入りは制限されています。ここは女神神殿ですから。けれど、貴方は今ここにいるでしょう。彼も同じです。彼は、貴方と同じ。意味はお解かりですわね?」
 アイシスが問う。一拍置いて、セトは息を吐いた。
「男でなくなったもの、か」
「ええ。と言っても、彼は古式のそれですから、貴方と全く同じというわけではないのですけどね」
 雑談はそこまでだった。差し向かいに座った二人が盃を合わせる。だが、どちらも、それに口を付けなかった。
「先程の話に戻そう。ユギと連絡を取っていると言ったな。しかし、アメン=ラァには会わぬとも。どういうことだ?」
「別に、複雑な話ではありませんわ。ユギも――アメン=ラァも、わたくしがシモン様を頼ったと気付き、シモン様のところへ行った。そこでシモン様がこう仰っただけ。ベヘデティの一位の女はそなたらには会わぬ、手紙ならば自分が預かり渡そう」
「手紙?」
 アイシスが立ち上がり、文机の上に広げられていたメフウ紙を一枚手に取った。
「ご覧になります? 酷いものです。傲慢な、貴方に対するかつてのファラオのような、そんな論理で述べられている」
「それは――」
 アイシスがユギの書を差し付けるようにして前へ出した。セトが勢いのままにそれを受け取る。そして、受け取ったそれを見て、彼は眉を顰めた。
 上質な手触りと、それに似つかわしからぬ格の低い文字。そのことにまず寄せられた眉は、内容が読まれるとより深い皺を眉間に刻んだ。先の裏切りがため神妻の位を返すわけにはいかないが、王座の女としてならば再び王妃宮に迎えよう――それは、ユギがケメヌ公領にてしたためたその手紙である。
「形式だけを整えた、いや、形式すら危うい、そんな婚礼を挙げて何になる」
「アメン=ラァのためになるのでしょうよ。あの子は知らないのです。見せ掛けのマアトのみを重んじ真実を疎かにしても、招かれるのは不幸ばかり。わたくしたちがそうであったように、当事者を不幸にし、そこに生まれる不満が、民をも不幸にする。あの子はそれを知らないのだわ。セト・ヌブティ。わたくしは後悔していてよ。王子たちに、真実を隠し続けたことを」
 一息に言って、王座の女は再び席に着いた。卓が揺れ、手付かずのまま置かれていた杯から赤葡萄酒を零れさせる。
 ゆっくりと、時が流れた。数秒か、或いはもっと長く、言葉が途切れた。
「私は」
 セトが静かに唇を動かす。
「私はな、あの馬鹿王のことも、嫌いではなかったよ」
「ええ」
 アイシスが二度瞬いた。震える睫毛の先が、ほんの一瞬光って見えた。
「知っています。だから言うのです。わたくしたちが、そうであったように、と。わたくしたちが、そうであるように、と」
 再び沈黙が降りる。今度は、アイシスが静寂を払った。
「間違えてはならないのは、王がわたくしを選んだのではなく、わたくしが王となる人を選んだということよ」
「その言葉は、ずっと以前にも聞いたな」
「そうでしたかしら。ともかく、ファラオに過ちがあったというのなら、それに対して責任を取るのはわたくしです」
 それは国家の女主が本来持つ務めだ。長い時間を掛けて骨抜きにされた王座の女の力を、彼女は使おうというのだ。だが、それは本来のように表立って揮えるものではないだろう。
「わたくしは、貴方に恨まれるのでしょうね」
「恨まれるようなことをするつもりなのか」
 アイシスが首を振る。一度は横に、それから縦に。彼女の首は動かされた。
「恨まれたくてするのではないわ。けれど、結果としてはそうなるのかもしれません」
 今更、とセトが呟いた。
「我が身のことなど、今更気にも掛からぬ」
「本当は、貴方と手を組めればいいのですけど」
「無理だな。私に付けばユギが反発するぞ」
 即座になされた返答に、アイシスが困ったような苦しいような曖昧な表情で笑う。
「無理だと思っているのに、貴方は、何をしにここへ来たのです」
「確かめにだ。アイシス・ベヘデティがいまだ王座の一位の女であるのかどうかを、確かめに、だ」
 そしてセトの目的は果たされた。彼女は国家の女主の心を失っていないと確かめられた。彼女は必ずしもセトのためには働かないだろう。だが、その行動が目指すところは結局セトと同じなのだ。
「確かめに、それから、釘を刺しに。王座の女。私の恨みを恐れるでないぞ。お前が恐れても構わないのは、ただ一つ、国家の危機のみだ」
 セトが席を立った。これ以上、詰められる話は無い。同じ目的を持ちながらも歪んだ政情が故に互いを利用し合うしかない彼らは、まさに不幸であったのだろう。
「ところで、その手紙に返事はしたのか?」
 退室する間際、セトが卓に置かれたユギの書簡を指して問うた。ええ、と、アイシスが頷く。
「手短に、一文だけを返しましたわ。わたくしの顔を見たいのならば覚悟なさいと、それだけを」


 そのアイシスの返答は、ジェフウトを経由してケメヌのユギの元へ届いた。遣わした使者の持ち帰ったものが書簡だけであったことを、ユギは驕った驚きで見る。
「母上はいかがした。何故これだけなんだ」
「は、その、陛下の指示通りジェフウトには行きましたものの、アイシス様には目通り叶わず……大宰相様に陛下の手紙を預けましたところ、帰ってきたのがそれで御座いまして……」
 見るからに短い書である。留め紐を解く前から、その巻きの緩さと細さで分かるほどだ。
「まあいい、下がれ」
 使者の男と入れ替わりに、アンプがユギへ近付いた。覗き込まれながらユギが留め紐を外す。広げられたメフウ紙には、こう書かれていた。

    我が面布を掲ぐるものは、語るべからざるものを見るべし。

 記されているのは真実一文切りであった。前置きも何もなく、一文のみが、メフウ紙の中央に鎮座している。
「何これ、どういう意味?」
「ええと、顔の布だから……言葉通りの意味だとして……」
 文字も、文体も、幾らか古典掛かっている。位あるものの文章は、聖刻文字の講義を投げ出しがちだった王子たちにとって、読むに難かった。
「私の面布を捲るものは、語ってはならぬものを見るだろう」
 メフウ紙と睨みあう二人の頭上に、ケメヌ公の声が降ってきた。
「私の顔を見たいなら、誰も語らなかった真実を知る覚悟をしなさい。そういう意味では?」
「公」
「えっと、それって?」
 ケメヌ公の見解に、アンプが首を傾げた。ユギにも真実と言われて思い当たることは無い。
「公。はっきりと言え。真実とはなんのことだ」
 核心を暈したもの言いに、ユギは鼻の皺を寄せる。ケメヌ公が緩く首を振った。
「それを申し上げるのは私の役目ではない。いや、誰の役目でもない。真実というものは、己で気付くから重いのだ」
 真実。ユギたちが間近に見ながら見過ごしてきたそれ。教えられて気付くのでは駄目だ。だが、気付くための切っ掛けを与えるのは、周囲にいて既に知るものの役目である。
 この時、ヘジュウル・ケメヌは自らの役回りを理解した。
 アイシスの手紙はユギに向けたものであって、なおかつ、ヘジュウルに向けたものであった。王座の女の書簡が古典的聖刻文字で書かれていたのは、王子たちがすぐに読み捨ててしまわぬようにだ。歴と文字の家ケメヌのヘジュウルの目に、その文章が触れるようにだ。ユギが真実を知るように仕向けよと、アイシスの手紙はそういう意味が込められたものであった。
 ヘジュウル・ケメヌは理解した。そして、彼は動き出した。
 セトの計画に加担したという立場、王子のアメン=ラァ信奉、由緒あるマアトの慣わし、それらに挟まれ様子見に徹していたケメヌ公に、漸く許可が降りたのだ。もう取り繕う必要は無い。全てを白日の下に曝す時が来た。アイシスの一文は、まさにそういう意味なのだ。
 時はアケトの半ば前。タァウイの中部、ナイル本流とシェへの支流に挟まれた地ケメヌにも、増水期の兆しが見え出した頃であった。


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