セネト・パピルス 41
2010/5/29


 アケトの水が各地に行き渡り、船の行き来がナイルで盛んになると、先の水上戦からネムティ神殿取り潰しまでのいきさつは、こと人の口に上るようになった。

 ――メンネフェルで王の危機に駆け付けた援軍の兵力は馬四千五百騎。シュメールの女族長らが弓取るそれに、先王の息子は尻尾を巻いて逃げ帰ったそうな。敗走の責は己の母に押し付け、その非道故に、逃げ帰った先イウヌウでは港入りを拒まれたとも聞く――
 ――おお、それよ。それでやむなくネムティ神殿を頼ったが、今や神殿は王の怒りに触れ取り潰し。当人はネムティを助けるでもなく逃げてしまったという――
 ――女々しきことよ。女々しきことよの、二国の継ぎ手を名乗るものが――

 話というのは幾らかの誇張を持って広がることが多いものだが、この場合は、比較的事実のままに近い。これらの話は無論ケメヌでも盛んに取り沙汰され、ただケメヌが他と違ったのは、その領内に逃げ隠れた先王の息子を抱えているということであった。
 町の声は公館にも届く。日に日に苛つきを溜めていたユギが耐え切れなくなったのは、アケト四月の半ばも過ぎ去って、播種期ペレトが近付きつつある頃だった。


「再戦だ!」
 ケメヌ公館の一室に雄叫びのような声が響き渡った。
「もうこれ以上言わせておけるか! こうまで言われて身を隠していられるか!」
 ユギが黒檀の机に拳を打ち付ける。鈍い音がして、アンプがぎゅっと目を瞑った。
「王子」
 一瞬の静まりの間に、ケメヌ公が前へ進み出る。彼は、今こそ、己に課せられた役を全うしようとしていた。
「王子。再戦などと、軽々しく仰るものではない」
「軽々しく? 我が名誉を守るため立ち上がることの何が軽々しいというのだ。それとも、お前はこのオレの名誉自体が軽いなどと言うつもりか」
 ユギの反論にケメヌ公が嘆息した。
「まず兵はどうなされる」
「アメン=ラァの味方の地。それから、ケメヌ公よ、よもやここに至ってセト側に付くとは言うまいな?」
 公は再び大きく息を吐いた。一番の頼りはアメン=ラァ。ケメヌの兵力はタァウイ四公家の一家に相応しいだけのものではあるが。
「では、再戦をしたとして、そのあとについては何かお考えがあるのでしょうな?」
「そのあと? 我々は勝つ。そして、そうなれば、セトもセトの都も無用のもの。首を刎ね、壁を崩し、我らはウアセトへ帰還するまでだ」
「では、そのあとは?」
 自信に満ちたユギの言葉が区切られると、ヘジュウル・ケメヌはすかさず次の質問を発した。
「そのあと? 常の王がするように政を行う。ああ、その前に婚姻があるな。解ったぞ、ケメヌ公、お前はまだ母と息子が番うことを嫌悪しているのだな? どうせ、形式だけのことだというのに」
 ユギがケメヌ公を見下しせせら笑う。だが、公は、極めて冷静なまま、更に次の問いを重ねた。
「では、そのあとは?」
「そのあと?」
 ユギが片眉を吊り上げて問い返す。そのあと。再三問われた言葉に、彼はしつこさを感じ始めていた。
「くどいぞ、公。何が言いたい」
「何とは妙なことを。私が訪ねているのは全く言葉通り、そのあとについて何かお考えがあるのかということのみ。王位を奪い、王座に着き、そのあとのことを、問われる意味が本当にお解かりにならないか?」
 答えは無い。ユギの後ろで、アメン=ラァの大神官が密かに顔を顰めた。ヘジュウルは溜息を吐く。
「ではお考えなされよ。現王を討つ、その意味は、ただタァウイの王座に関することに留まらない。それは現王に味方し先の政変を成したプント国やアシュ族、メンネフェルに駆け付けたシュメールの姉妹族を、敵に回すということだ。いずれも今はタァウイに味方し北方ケタや南方クシュの抑えとなっているが、現王を討てばそれもどうなるかは分からない」
 重い空気が流れた。少なくとも、アメン=ラァは、そうなった場合の危険性に気付いている筈であった。大神官は、ヘイシーンは、政変の起きた理由を知っていたのだから。政変を起こした内の一人であったのだから。
「タァウイは一昨年の播種期をケタとの戦いによって捨てている。昨年も、遷都の混乱の内に種を撒かれず終わった地は多い。加えて今年も作物が育たぬとなれば、内で争ってなどいる場合ではなくなるだろう」
 タァウイの疲弊に、必ずや周辺の強国は付け入ってくる。そして、タァウイの敗色が濃厚ならば、アシュもプントも陣を変えざるを得ない。
 アシュにとっても、プントにとっても、タァウイが国家の形を保ち、周辺国と均衡を取っていてくれるのが一番だ。だが、それが望めないのならば、タァウイの領地を得て力を付けるだろう他国にさっさと取り入り、属国の中で良きものになるのが、最高ではないが最善の道ではないか。
「王とは、なって終わりのものではない。王となったものは、王となったその日から、国家とそこに住まう民らを背負い、その安泰のために尽くさねばならないのだ」
 その荷は幾千億もの石ころを背負うよりも重い。
「王子。先の王の一の王子よ。貴方は、それを考え、覚悟したことがあるのか」
 ユギは押し黙った。彼の頭には、父を――ひいてはその息子である自分を――裏切ったセトへの憎しみと、アメン=ラァによって植え付けられた、誤った、自らの王座の正当性ばかりがあった。
「ならば――ならば公よ、どうすべきだと言うのだ」
 和議。ヘジュウルが答えた。駄目だ、と、反論は、ユギではないところから上った。
「それだけはならぬ。なりませぬぞ、王子。和議など結んでは、セトの王位を一時的にとはいえ認めることになる」
「とはいえ、この時期に戦などできぬのは、大神官殿もご承知だろう」
 問われ、ヘイシーンが低く唸る。不本意だ。だが、アメン=ラァとて、弱り切ったタァウイを手中にしても旨味は無い。弱るのは、あくまでセトとユギだけでいいのだ。国土ごと弱られては諸国の餌となるだけだ。
「何も一足飛びに和議を締結させずとも、まずは交渉の場を持てばいいのです。交渉を続け、和議の条件に納得がいかなければ、それから開戦でも遅くはない」
「のらりくらりと話し合いを続け、次のアケトを待って交渉決裂、開戦か?」
 そう巧くいくのかとユギが訝る。交渉には相手がいるのだ。自分たちの思う通りに相手が動く保証など、どこにあるというのか。
 だが、不安げなユギとは対照的に、ケメヌの公は笑みさえ浮かべそれに答えた。
「アケトまで戦を起こしたくないのは向こうも同じ。どころか、王子たちを殺さず生け捕りにしたがっているところからすれば、和議に積極的なのはむしろ現王側である筈。必ずや、交渉の申し出は受け入れられるでしょう」
 そして、もう一つ、ヘジュウル・ケメヌにはこの考えの拠りどころとするものがあった。
「段取りは私が。ここケメヌを、方々の集まる場としてお貸ししよう」
 彼はその日の内に三通の書簡を書き上げた。一通はメンネフェルの王セトの許へ。もう一通は菜料地ジェフウトに篭る大宰相、ケメヌ家のシモン・ムーラン・ジェフウティへ。最後の一通は、ジェフウトを通り、その先、当代一位の王座の女アイシス・アメン=ヘテプの許へ。
 ジェフウトとそれより先はケメヌ公の独断である。セト側ともユギ側とも付かぬ二人を呼ぶのは事態を複雑にする可能性もあった。
 だが、二人を、特にはアイシス・アメン=ヘテプを、呼ばねばならぬのだと彼は強く決意していた。彼女を呼んで、それで何が起きるのか。それはケメヌ公の知り及ばぬことだ。ただ彼は、ザウよりの書に従い、その役目を果たす覚悟を決めていた。
 自分が役目を果たせば、あとは国家の女主が全てに道筋を付ける筈。彼は、それを信じていた。


 和議交渉申し入れの書簡がそれぞれに渡ってから、真っ先にケメヌへやってきたのは大宰相だった。彼の船は、ジェフウトに申し入れが届いた五日後に、ケメヌの船着き場に到着した。
「よくぞいらして下さった。我が師、かつてケメヌの司であった方よ」
 礼を取ろうとしたヘジュウルを、船から降りたシモン・ムーランが慌てて止める。
「やめよ、今はそなたが家の司。我が身の主ではないか」
 ケメヌの司が変わったのは、もう十五年以上の昔、アテム・アメン=ヘテプの治世の元年であった。今はセトの治世元年と呼ばれるその年の、シェムウのことを、ふいに彼らは思い出す。
「――タァウイ四公家の一家でありながら国家と命運ともにすることなくここまで来てしまった責を、ケメヌもそろそろ取らねばならぬのかもしれぬな」
 老爺がぽつりと呟いた。そのまま、彼は搾り出すような声で先を続けた。
「我が不徳の代償を、ケメヌは払わなんだ。私一人が公の座を降り、それで終わりにしてしもうた。セトの情けに縋り、不徳の存在を認めることすら、神の前に己の不徳を曝け出すことすらせずに、ここまで――」
 タァウイの大宰相は両手を天に掲げた。空には大きな一塊の雲が浮いている。ヘジュウルが空を見遣り、それから口を開いた。
「私も、私もです。あの政変の折、王座は誰に渡されるべきかという問いに、私は答えなかった。私は王宮のことに詳しくないと、それを言いわけに、国家の重きを背負うことも拒否した。私が答えなければ誰の下に王座が行くのか知りながら」
 二人のケメヌは目線を交し合った。老いた方が言った。
「成せることを成そう。既に重き心臓の身として。私は、そのためにここへ来た」


 大宰相に次いだのはアイシス・アメン=ヘテプであった。彼女は、一人の従者を従えてケメヌへやってきた。
「お久し振りですわね、ケメヌ公様。大宰相様も」
 桟橋で出迎えた二人に、アイシスはそう声を掛けた。彼女の後ろで従者が賛美の手を差し掲げる。従者は、ザウの滞在所でセトが見たそのものだった。
「お二人にはご紹介しなければ。彼はリシド。わたくしが身を潜めていた間ずっとわたくしに仕えてくれていたものです。わたくしに関することは、なんでも彼にお申し付け下さいませ」
 大柄な男がもう一度腕を翳す。
「さぁ、ところで、わたくしの不義理な息子はどこです? 出迎えにすら来ないとは、王座の女に婚姻を打診しておきながら、高々王子という身分はいつの間にそうも偉くなったのです」
 アイシスが怜悧な瞳で辺りを見回した。遠巻きに、アメン=ラァの神官の姿が見えたが、ユギたち本人は影も形も無い。
「そのことに関しては、容赦してやってはくれぬか」
 シモンが憤るアイシスを宥めるように言った。
「そなたが姿を見たければ覚悟せよなどと言うから、会うのに気が引けているのじゃ。そなたから出向いてやれば、王子の覚悟も固まるじゃろうて」
「まぁ、それは。あの馬鹿息子にも気が引けるなどという殊勝な心が残っていましたか」
 アイシスは一歩前へ進み出ると、深く頷いた。
「良いでしょう。会いに行きましょう、わたくしから。どなたかご案内頂けますか」
 ケメヌの現公が声を上げた。


 そして、大宰相の到着から十日、王座の女の到着からは四日経って、最後の一人が現れた。王の立場に相応しく、身辺警護の黒蛇たち多数を引き連れ、セトがやってきた。
「ヘジュウル・ケメヌ。私への連絡は随分遅かったな」
 和議申し入れのことではない。それは、シモンやアイシスに当てた書簡と同日に出したのだから、地理上、真っ先にメンネフェルへ届いた筈だ。
 アメン=ラァと王子を領内に匿っているということ。セトは、それを長く隠していたことを言っている。
「これだけ長く待たされたからには、機は熟したと思っていいのだな?」
 セトの問いに、ヘジュウルは頷かなかった。
「はっきり言えば、分からない。私には。だが、王座の女は、貴方も覚悟してくるだろうと仰せになった」
 頷いたのは、セトだった。
「そうか。……そうか、アイシスがそう言ったのか」
 水辺の風が吹いた。セトが天青石の瞳を閉じる。孔雀石の目墨が際立った。
「覚悟など疾うにしている」
 呟きは、風の音に遮られながらも、その場にいた全てのものの耳へ行き着いた。黒い男たちが視線を落とし、新旧のケメヌ公が腕を天に掲げる。覚悟無き筈が無い。
 王となったものは、王となったその日から、国家とそこに住まう民らを背負い、その安泰のために尽くさねばならない。ヘジュウル・ケメヌが王子に説いたそれは、元来、セトの信条であったのだ。


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