セネト・パピルス 42
2010/6/5


 人々は、ケメヌ公館の内に一室ずつを与えられ、ぎこちない様子で初めの数日を過ごした。
 それぞれに応対が不自然であったのは仕方の無いことだろう。彼らの立場は、その身分の上下から仲の良し悪し、その他ありとあらゆるものが、かつてとは変わってしまっていた。
 少しして、交渉が本格的になると、しかし人々は慣れた。自らの意見を通すには、自らの立場の優位性をともに主張しなければならない。ユギは以前父の臣下に接していた時の態度でセトに接し、セトは王が王家の傍流の子に接するようにユギに接した。
「こうも話し合いばかりというのも疲れますね」
 その日の議論が終わったあと、庭へ出たアイシスは、菜園の手前に立っていたシモンにそう声を掛けた。
 ケメヌの地に人々が揃ったのはペレト第一月の第二週。そして第三週が過ぎたが、交渉は難航し、全く和議など結べる気配も無いのだ。尤も、ユギ側に話を纏める意志が無い以上、それも道理である。
「ご立派な菜園ですわ。もう緑が芽吹き始めている」
「ケメヌの土地の利じゃな。水の引きと気候の変化がいい頃に合わさる。穀倉シェには敵わぬが、この地もなかなかのものじゃよ」
 言って、老爺は菜園の端から端までに視線を巡らせた。
「我が身が公だった折には例年シェムウを待たず収穫を始められたものじゃが、さて今年はどうであろうか。このまま話が長引くようなら、そなたらの食卓にここの果菜を供せるかもしれんのう」


 シモンの歓迎せざる見解は、残念ながら事実となった。ペレト第三月上旬、いまだ和議は成立せず、ケメヌ公の菜園では幾種かの葉菜が収穫され出している。
 そんな折であった。
「セト。少し飲まないか」
 相変わらず進展の無い交渉のあと、夕刻遅くになって、ユギがセトの部屋を訪れた。手には二つの壷を抱えている。飲まないかと言うのだから、その中身は酒だろう。
「お前からそのような誘いがあるとは。どういった風の吹き回しだ?」
「別段何も……ただ、母が、偶には口に酒を注し円滑になった舌で腹割って話すも良かろうと」
 ここへ来ても、表向きとはいえ和議の場であるにも関わらず、ユギはセトへの敵愾心を収めていなかった。常の交渉ではその話を聞こうともしない態度を、アイシスは見かね、そして自分の取るべき手段を決めたのだ。
「アイシスの差し金か。だが悪くはない、二人ばかり差し向かいの宴としよう」
 ちょうど卓に着いていたセトが空きの椅子を指す。ユギは壷を置くと、示された椅子を動かしてセトの対面に座った。
 二つの壷は、一つが葡萄酒、もう一つが麦酒の壷だった。葡萄酒はセトの、麦酒はユギの好むものである。二人は時々もう片方にも手を出しながら、主にはその好む酒を飲んだ。
「言いたいことを言っていいか」
 先に舌を滑らかにしたのはユギだった。
「オレは、お前を許せない。何故重用では駄目だった? 何故王座を奪った? お前に裏切られた父の無念を思うほどに、オレはお前が憎くなる」
 セトが一口葡萄の酒を飲む。喉が動き、それから薄い唇が開かれた。
「今のお前に言っても解るまいが――」
 言葉を選ぶようにしてゆっくりとセトが話し出す。ユギの舌は酒に潤っていた。だがセトの舌はそうでないようだった。
「私とて、好きでああしたのではない。だがああするしかなかった。周辺二国、それからタァウイ上下二国の主たる州と神殿の半数ほど、それらが私に賛同したくらいに、あの当時、お前の父の治世は拙かった」
 言いわけに違いないとユギは思った。真に治世の問題ならば、重用されていた身のこと、意見を述べ国家の舵を正せばいいのだ。
「私は」
 ユギの考えを読んだかのように、セトが続けた。
「お前が思っているほどには、重用などされていなかった」
「嘘だ」
 間髪入れずユギが言った。
「嘘だ。王宮域に住み、数多の同族に官位を持たせ、政策にだって口を出していた。そのお前が重用されていなかったというのなら、父は誰を重用していたんだ」
「アメン=ラァ」
 アメン=ラァ。重用、或いは盲信によって、その教義のごとくに王都ウアセトの全てであったもの。出された神の名に、ユギが顔を顰めた。
「お前もそう言うのか。以前に、シモンも言ったぞ。全ての起こりは父がアメン=ラァの力の蓄えを看過してきたことであると。お前が父を討ったのはアメン=ラァを抑えるためであったと。だが実際はどうだ。アメン=ラァの蓄えは我が戦費として惜しみなく振り撒かれている。正しき王の子のために、彼らの蔵は開かれている」
 ユギは盃に口を付け、息を抑えるようにしてそれを呷った。
「それに。それに、だ。シモンも、そして今のお前も、お前が然程に重用されていなかったとは言うが、ではどういう立場でお前が王宮域に邸宅を構え父に直接ものを延べていたのかということを説明しようとはしない」
 セトは黙ってユギの言葉を聞いている。何を、どう言うべきか。そも言うべきか。セトは考えていた。
「お前たちの話には信憑性が無い。お前たちが、お前とシモンだけじゃない、母も、ケメヌ公も、誰一人、はっきりとしたことを言わないのは何故なんだ」
 ユギが口を閉じた。窺うようにセトを見る。強い視線を避けるようにセトは目を瞑った。
「言えぬからだ」
「言えぬ?」
「言ってはならぬことだからだ。語るべからざることというのは、様々な理由によってあるが、これもその一つだということだ」
 曖昧な言葉によって相手が察するのを待つしかない。そういうことが、この地上にはあるのだ。
 口に出せば、即ちそれは認めるということである。そこに行われた不徳を認め、不徳を犯したものとその背負うものを、神の怒りに晒すということである。
 セトは、神の地上の威光は信じていない。神が地上に影響を与えるのならば、自分の運命はもっと違うものであっただろうと、そう思っている。だがその彼も死後の国への信仰は捨てていないのだ。
 王や大宰相の抱えるものが、国家とそこに住まうもの、住まったものたちが、死後の平穏を失うような目に遭ってはならない。為政者の不徳によって民の平穏が脅かされることなど、あってはならない。
 セトも、タァウイの人間であった。
「私一人のことならば幾らでも口にしただろう。だがそうはいかない。いかないというその意味を、お前が考えることを願うのみだ」
 言い終えたセトが葡萄酒の杯を取ろうとする。白い指先が金の縁に触れ、そして、杯が倒れた。
「――酔ったようだ」
「そうは見えないが……ああ、少し眠そうだな。話の続きは明日、議場でにするか」
 この時、ユギは本心からそう言った。宴を終わらせるに当たって自杯に残っていた麦酒を飲み干し、立ち上がった、その時まで、それはユギの本心であった。
「セト」
 呼び掛けに対する反応が一瞬遅れた。全てが、その一瞬の内に決した。
「何をする!」
 卓を跳ね飛ばし、ユギがセトの肩に掴み掛かった。椅子がこけ、二人が揃って床に投げ出される。先に体勢を整えたのはユギだった。割り開いた細い足の間に身体を滑り込ませ、セトの長衣の合わせを開く。白い皮膚が彼の眼前で露になった。
「やめないか! そこをどけ!」
 持ち込まれた体勢が何をする時のものか、セトは知っていた。焦り、圧し掛かってくる若者から逃れようとして、腕に力が入らないことに気付く。
 弱い抵抗を抑え込んだあとのユギは乱暴だった。
「難解な話などこれで終わりだ。オレは、オレの王位を、戦の慣わしによって証明してやる」
 そう。乱暴なのも当然。床の上でこれから繰り広げられようとしている行為は、寝台で成されるそれと形は同じなのだが、意味合いに関してが全く異なっている。
 タァウイにおいて、男が男と関係を持つことは、二種類の意味を持っているのだ。恋情によってそれを成せばマアトに外れたるものとして糾弾されるが、そうで無い場合、それは力争いとしての側面が主となる。敵対者を押さえ付け征服することは自らの力強きを見せ付ける美徳であり、ユギが戦の慣わしと言うように、勝者と敗北者を確とする行為でもあった。
 ただ犯すだけのことに愛撫など必要で無い。ユギの手が、性急に、セトの下帯へ伸びた。抵抗が一層激しくなったが、力争いの勝者はユギだった。そして。
「――これ、は?」
 勝利し下帯を剥いだユギの目に、見たことの無い光景が映し出された。
 あるべきものが、何も、無い。
 宦官というものの存在くらいはユギだって知っている。だが、通常タァウイのそれは全てを取り去るものではない。精を作り溜める部分だけを切り落とし、傷口を熱砂で焼いて塞ぐ、そういうものだ。何も無くなるなど、あり得ない筈だった。
「男でないものが王とは。オレの王位の証明は思ったより容易だな」
 奇妙に思いながらもユギはことを進めた。征服の期待に満ちた頭は深く考えるということができなかった。
「ひっ――ぁ、あ」
 なんの準備もせず、開かせた身体の中にユギが腰を突き入れる。きつ過ぎて収まりが悪い。それを誤魔化すようにして無理に動くと、セトの唇から悲鳴と罵声が漏れた。
「なんとでも罵れ。お前はオレに負けたんだ。お前が何を言おうと勝者はオレだ」
 獣染みた行為が始まった。
 若い王子は雄羊のように精力的だった。細い筒を力任せに押し広げ、内側に何度か精を放って、それでもまだ止まるということを知らない。
「あ、あ……ぁ、あぁ」
 暫くもすると筒が緩み、セトの声の調子が変わる。悲鳴が喘ぐような響きになり、罵声は潜められた。だがユギにそれを気に掛ける余裕は無い。
 何度やっても足りない。もっと、もっと、もっと!
 戦の慣わしという言葉は頭からすっかり消え失せていた。快感に囚われ、ただ際限無く引きずり出される欲求を満たすためだけにユギは身体を動かし続ける。セトの様子など、途中から全く見てもいなかった。
 そして一刻以上が経った。
「あ、あぁ、もう、どうか……ぁあ」
 ユギが気付いた時、彼の背にはセトの腕が回されていた。腰にも痩せた足が絡み付いている。すすり泣くような声が終わりを懇願し、自身を包む肉が絶え間無く痙攣していたが、それがいつからそうなのかユギには分からない。
「どうか、ぁ、あ……ぁ、おやめ、に」
 力争いの範囲を超えている。自覚したユギが動きを止めようとした時だった。
「ぁ、ぁ、ぁ――あぁ、ぁ、――ファラオ」
 止まり切れずユギは精を吐き出した。身体の下で、セトが意識を手放していた。


「イウリト豆、胡瓜、レタスに恋茄子。どれも時期ですわね」
 早朝の菜園へ、散歩がてらアイシスは出向いていた。果樹の時期にはまだ早いが、幾らかの野菜はもう充分に育っている。豆を収穫していた園丁が、彼女に気付いて礼を取った。
「あら、わたくしにはお構いなく。今日は何を採ってらっしゃるの?」
「今はイウリト豆を。あとは、ああ、先王妃様は何かお好きな野菜が御座いますか。今朝の食卓にお出しするものを選んでおりますので」
「わたくしですか。そうですわね、何か葉菜でいいのはあるかしら」
「葉菜でしたらレタス――と言いたいところでしたが」
 園丁が菜園の入り口脇を見遣る。
「食べ頃の分が全部盗っていかれてしまいまして。隣の恋茄子もやられましたが、あれは食べ方を誤ると大変なことになるというのに」
「大変なこと?」
「ジェデトの雄羊のようになってしまうんですよ。衝動的で、まあ、その、そういう」
 園丁が肩を竦めた。それは、とアイシスが大仰に驚いてみせる。
「大変ですわね……きっと」
 風が吹き、菜園の緑が葉を揺らした。アイシスが髪を手で押さえる。彼女の、腕に隠れた横顔を、園丁は見なかった。


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恋茄子:マンドラゴナ(マンドレーク)。麻薬成分を含み、正しく用いれば麻酔となる。