セネト・パピルス 43
2010/6/12


 その朝の食卓にセトは現れなかった。おかしく思ったケメヌ公が彼の様子を見に行き、そこで昨晩のことが明らかになった。
「このことを、いかがすべきでしょうか」
 若いケメヌはまず老いたケメヌをその場に呼び問うた。大宰相シモン・ムーラン・ジェフウティが答える。
「我が菜料地の神は、こういう時、公平に、事実の通りを裁くものじゃ。私も、今、その土地ジェフウトを預かるものとして、同じようにすべきじゃろう」
 老宰相は床に膝を附いた。眼前に倒れる人の、乱れた衣服を僅かに整える。
「起きよ」
 セトの肩を揺する。数回目で、青い瞳が開いた。
「シモン、様」
 セトが身体を起こした。苦痛に曲がった背をシモンが支える。
「セトよ」
 苦いものでも噛み潰したかのような声でシモンはセトを呼んだ。何を言われるのか、多分、セトは解っていた。
「私はこれから惨いことを言う。――王位について、そなたらの言わねばならぬことを言え、と」
 それは和議交渉の初めにシモンが言ったことの繰り返しだった。セトが微かな笑みを口元に浮かべる。
「議場へ。私はそこでユギと争いましょう」
 然るべき時間ののちに、常の一室が開かれた。


「王位について、そなたらの言わねばならぬことを言え」
 シモンの言葉で議論が始まった。すぐさま、力争いのことが取り沙汰された。
「戦の慣わしによって述べる。セトの王位は正されるべきだ」
 タァウイの王位は、男という性別のものにしか認められない。ユギは『昨夜見た真実』の話をし、議場の人々――王座の女、大宰相やケメヌ公、大神官にアンプやユギの取り巻きたち――にそれを訴えた。
 シモンとヘジュウル、それにアイシスが一度ずつ視線を交わす。三者は最後にセトを見、それからシモンが口を開いた。
「ここで発言の真を問うことはすまい。何故なら、私はもうそれを知っているのじゃから。アテム・アメン=ヘテプの息子ユギの言うことは百万回も正しい」
 様式に則った告げ方だった。ユギと取り巻きたちが歓声を上げる。王位をユギに与えよと、大神官や他の何人かが言った。
「交渉は決裂だ」
「セト。往生際が悪いぞ」
 セトが立ち上がった。ユギが睨み付けるが、構わず歩き出し扉へ近付く。外には黒蛇たちが控えていた。
「メンネフェルへ帰る支度を。和議締結はならん」
 議場を去る直前、セトの瞳がアイシスを捉えた。天青石に映った女が頷く。セトは視線を戻すとそのまま無言で部屋を出た。


 交渉の決裂を受け、セトが慌しくメンネフェルへ帰還する。だが、彼は壁の内に入る間も無くメンネフェルを去らねばならなかった。ケメヌでの力争いの結果とユギの知った真実は、驚くべき速度でタァウイ中に広がっている。マアトに適わぬ王位に民は不信を抱き、そうなれば、州侯らも己が領民の声を無視はできない。各地でユギの王位を求める動きが見え出した。
「噂の回りが常に無く速い。急いだ方がよいでしょう」
 メンネフェルから少し離れた東の岸で、セトと黒蛇らの船を向かえたのはアシュの一団だった。
「アスティルティトとアナトの団には、王宮の方々を連れ、また主要な荷を積み、先にシェズへ向かってもらっています」
「船は?」
「アソ号の準備が終わっている筈です」
 セトがネケトネチェルの戦車に乗り込む。黒蛇たちも、次々とアシュの戦車に同乗を始めた。
「皆様お乗りに? アシュのものどもは馬に鞭を! シェズまで駆け通しです!」
 戦車隊が走り出す。シェズへ――タァウイの紅海へ通じる要所であり、かねてよりアシュとプントの主要な貿易港であったその土地へ。
 さよう。これは、亡命の途であった。シェズの港から紅海を抜けプントへ。諸侯らがユギに付いた時、大きな戦いが起きる前にメンネフェルを離れるべく、セトが用意していた道である。以前アメン=ラァが自身の都ウアセトを戦地とすることを厭うたように、セトもメンネフェルが戦地になるのは避けたかった。
「再び噂になれば民も思い出します。二度までも噂となれば、民ももう認めぬでしょう」
 ネケトネチェルがアイシスの口振りを真似るようにして言った。
「本当に、よくお考えになることです。王子に対する悪評は振り払われ、その王位を認めようという声が上がりつつある。王権の正当性に注目が集まり、王子とアメン=ラァを切り離すのも容易になった。そして王子自身も真実の一端に触れたことでしょう」
 彼女の、手綱を握る手に力が篭った。彼女はアシュの女主である。一氏族の頭であり、族のため身を削るものである。だが、同時に、十数年前に自族の娘が受けた恩義を忘れぬものでもあった。
「本当に、よく。ですが――よかったのですか、これでは、陛下ばかりが――」
 女が言葉を詰まらせる。少し会話が途切れた。
「ネケトネチェル」
 セトが呼ぶ。低い、落ち着いた声だった。戦車の進む先を見ながらセトが言った。
「私は昔、国家安泰のためならば、僅かな民の犠牲など、王家の谷の石ころに過ぎぬと言ったことがある。権力を持つものの傲慢だと私を責めた女もいたが、彼女に、私はこう説明した。だが、私は決して、驕ってそう言うのではない。それは理念であり、多数の良き暮らしのためならば、私自身が石ころとなることがあったとて、構わないのだ、――と。私は、その言葉を嘘にしたくはない」
 暫くの間、車輪の転がる音だけが二人の耳に響いた。少しして、長く、深い、賞賛の息が吐かれる。
 シェズの港が見えてきていた。


 港には、プント船アソが停泊していた。ちょうど石材の買い付けに来ていたものを、もしや入用になるかもしれぬからとセトが頼み留まらせていたのだ。
 船には、セトと黒蛇たち、先に王宮を出てきていたセトの侍女侍従が乗り込む。ネケトネチェルやネブトアンク、セトアントは、セトの兵を連れ族のものと本拠へ戻ることになっていた。アシュは西方チェヘヌウへ。アスティルティトとアナトは北東シュメールへ。戻り、彼女たちはそこで時機を窺う。
「では、また。また、もう一度くらいは、お会いできるものと信じています」
「あぁ。……私の兵を頼む。それから、メンネフェルから持ち出してくれたという品々も。特に、時を見て持ち主を定めるべきものについては」
「お任せ下さい。何も、心配なさらないで下さい」
 ネケトネチェルが爪先で立ってセトの肩を抱いた。翳るところの無い親愛の形だった。彼女はすぐに離れ、桟橋からセトを送り出した。
 もやいが解かれ、船がシェズを出港する。アソ号と港の間にある程度の距離が開くと、陸の戦車隊も馬の向きを変えた。それを見届け、セトが船室に入る。
「済まないが、誰か休む用意をしてくれないか」
 黒い男たちの隊長がやってきて、備え付けの寝台に亜麻布を重ねた。
「簡素なもので申しわけ御座いません。元が商船ですので高貴な方には不都合多いかと存じますが、暫しご辛抱下さりますよう」
「いや、充分だ。プントは遠いのだろう。私は休むからお前たちもそうするように」
 男が一礼をして退室する。扉が閉まるとセトは寝台の上に身体を投げ出した。痛め付けられた肉が、まだ休息を欲している。
 セトは目を閉じた。嵐の夢を、見た。


 セトがタァウイを去って数日。
 ユギはアメン=ラァ大神官の勧めでメンネフェル入りを果たしていた。無論、ユギだけでは無い。議場にいたものの内、ケメヌ公は領地に残ったが、それ以外の殆どが、ここへ来ている。
 前メンネフェル侯の書記たちが一行を競うように出迎えた。彼らはセトの治世下で閑職に追いやられていたものたちで、ユギはその歓待を喜んで受けた。
「お前たちもセトの下じゃ苦労したんだろう。オレが戴冠した暁には必ず報いてやるからな」
「有り難き仰せに御座います。――して、この町は――?」
「ん? うん、そうだな。王都はウアセトに戻すが、ここにも然るべき監督者がやってきて、お前たちの侯となるだろう」
 町を取り潰しにはしない。それを聞いた書記たちが頬に安堵の色を浮かべた。
「それは重ね重ねに有り難きことに御座います。ああ、そうです、町のご案内を? 誰か」
 一人の書記が人を呼ぼうとする。いや、とユギは彼を制止した。
「町よりもセトの偽王宮を案内してくれ。叔母様はどちらに在らせられる?」
 セトとマナの不仲は、まだ理由には考え至っていないといえ、ユギも知るところなのだ。ともに亡命したとは思えず、彼はそう尋ねた。
「あ、はい、それは勿論のこと王妃宮に! いえ、偽の、で御座いますが、今ユギ様到着の知らせを持って使いが走っておりますれば」
 書記の出した使いはそれからすぐに戻ってきた。
「申し上げます。ヌブト公妃様のお出でで御座います」
 使いの口上が終わるか終わらぬかの内に、後ろをやってきていた輿の幕が開き、そこからマナが飛び出してきた。
「久し振り、久し振りだわ、皆」
 彼女はまるで少女時代のような軽やかさでユギたちに走り寄った。いつもなら――かつてのいつもならそれをはしたないと咎めただろうアイシスも、今日ばかりは何も言わない。
「メンネフェルの生活は不自由ではありませんでしたか」
「大丈夫よ。私は政に関わっているわけでもないし、放って置かれてちょっと暇にしてたくらいよ。ただ」
 マナがちらりとアイシスを窺うようにして見た。気付いたアイシスがどうしたのと問う。
「ただ――ナムが。イウヌウの鞍替えのあとくらいからかしら、姿を見なくなったの。セト様に聞いたわけじゃないからはっきりしたことは分からないけど、侍女たちの噂じゃ仲違いをして出て行ったって」
「仲違い? 誰とです?」
「セト様よ」
 ユギの疑問に答え、それからマナは再びアイシスを見た。
「アイシス様は何か知ってらして?」
「わたくしが? 先頃までずっとザウにいたわたくしが、どうして知っていると?」
 問い返され、マナが気まずげに視線を逸らす。だって、と彼女は小さく呟いた。
「だって、仲違いの理由はアイシス様のことだったって聞いたわ。アイシス様が神妻じゃなくなった、その時のことだって」
 今度はユギが気まずくなる番だった。そのことについて、彼はまだ何も改めていないし、当然、神妻の地位も空白のままである。
「わたくしは……何も、報せも受けていないわね」
 アイシスは言って俯いた。重くなった場の空気を振り払うように、殊更明るく、でも、とアンプが声を上げた。
「でも、ほら、こうして伯母様も戻ってきたんだし! ナムも帰ってくるかも!」
「そうね、仲違いをした相手だっていなくなっちゃったんだもの」
 マナ、とアイシスが強く名を呼んだ。
「そういう言い方はおやめなさい」
 少し苦しそうに彼女は句を継いだ。横でシモンが頷く。ユギが不満げに口を開き掛けたが、それは遮られた。
「ともかく。ナムのことは気懸かりです。しかし考えねばならないのはそれだけではありません」
 王位のこと、都のこと、そしてアメン=ラァのこと。アイシスは心の中で考えるべき事柄を並べ立てた。
 考えなくては。セトはどう動く? ユギは? アメン=ラァは? 誰がどう動いてどういう状況を作るのか、考えなくては。
 口々に話し出した人の声を聞き漏らすまいとしながらアイシスはそれらを計算した。
 切っ掛けは全て揃った筈。あとは何をすればいい? 何をすれば、アメン=ラァを退け、正しく確固たる王権をこの国に取り戻すことができる? 考えなくては。よく考えなくては。わたくしが間違えば、全てが無駄になるのだから!
 アイシスの手が無意識に彼女の胸元を抑えた。心臓が皮膚の下熱く脈打っている。それを取り出し秤に載せたならどのような傾きを見せるのか、まだ、彼女自身にも解らなかった。


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