セネト・パピルス 44
2010/6/19


 メンネフェルへは一週ほど滞在することになった。大宰相らにはすぐにでもウアセトへ向かうのが良いとされたのだが、ユギがそれを拒んだのである。
 メンネフェルはソカルの対岸。そしてソカルは、ユギたちが先王の遺骸を仮に葬った土地であった。墓堀職人が呼ばれ、棺一つで砂に埋められたアテム・アメン=ヘテプを掘り起こす。滞在予定の一週は彼らの仕事が終わるまでの時間だ。
 遺骸の掘り起しが済めば、それとともに、ユギたちはナイルをウアセトへ南上する。ウアセトに着けば先王の身体はタァウイ人の例に漏れず生前から作られていた墓へ収められるだろう。そしてユギは己の都で戴冠だ。メンネフェルにセトが移していた儀式冠の厨子も既に押さえてある。
「宝物庫は他の奴らに検めさせたし、オレたちはセトの部屋でも調べてみるか?」
 滞在六日目の朝、特にすべきことも無く暇を持て余していたユギはアンプにそう持ち掛けた。
「調べるって何を?」
「何をってわけじゃないけど。何か置いていったかもしれないだろ」
 印章、然程重要なものじゃないにしても書簡や陶片の走り書き。結論から言うとそれらは全てアシュの女主が抜かりなく掻き集めて行ったのだが、そういうものを求めてユギたちはセトの部屋の戸を開けた。
「殺風景だな。ウアセトのヌブト公館とは大した違いだ」
「本当だ。動かせるものは持っていったのかもしれないけど、壁から真っ白なままだし」
 アンプが漆喰の壁に触れる。ヌブト公館の部屋なら、セトの主室は勿論、客間や仕え女の控えまで、図画の描かれていない部屋は無かった。壁面のいたるところに美しい青睡蓮が咲き、また、どの部屋も神への賛歌で満たされていた。
「寝室もこうか? だとしたらちっとも気が休まりそうにないな」
 ユギが続きの間を覗く。そこも、僅かな装飾があるばかりで、公館の部屋には程遠い。
「あ、でもこっちは寝台の脇に像があるよ」
 主室よりは幾らか手を入れているようだとアンプが指差す。陰になってなんの像だか判らないそれを見ようと、二人は部屋の奥へ進んだ。
「……タウレト神像?」
 起立する河馬の女神像だ。ちょうど両手で持てる程度の大きさのそれをユギが持ち上げた。
「なんだこれ、軽いな。中は空洞か?」
「護符でも入れてるんじゃないの?」
「これがタウレトじゃなきゃオレだってそう思うが……」
 タウレトは安産の守り神である。
「タウレトの護符なんて、セトには一番要らないものだろ。あいつがどうやって誰を孕ますっていうんだ?」
「あ。そうか」
 中に何か入っているのか確かめようと、ユギは像を振ろうとした。タウレトを傾け、だが、その先を彼は行えなかった。
「ユギ様! こちらにお出ででしたか」
 書記が部屋に駆け込んできた。タウレトを降ろし、なんだとユギが問う。
「急いで下の間にお越し下さい。シェズからの急使で御座います」
「急使?」
 シェズはセトが亡命に使ったと思しき港だ。これは火急のことかとユギもアンプも慌て部屋を出た。下の間には、アイシスやシモン、ヘイシーン、他の主なものが集まっていた。
「嵐が起きたそうです」
 ユギたちが部屋に入ると、急使より先にアイシスがそう告げた。
「シェズへの入り江を抜けた先、紅海へ出る、ちょうどその場所で。航行していた船は皆暴風によって東へ流され、沈んだのか、そうでないのかも、定かでないそうです」
「それで――それが――?」
 タァウイの船が被害にあったのならば痛ましいことだ。だが、それは急使を立ててまで伝えることだろうか。
 疑念を抱くユギにアイシスが続けた。
「嵐が起きたのは三日前。流され行方知れずになったのは、セトの船です」


 どうするか考えなさいと母は言った。だが、どうするとは何をだ。ユギは滞在用の一室で一人寝台に寝転がった。
 セトの船が難破した。大いに結構ではないか。死んだか無事かしらないが、東に流されたということなら生きていたとしてもタァウイに漂着するようなことは無いだろう。紅海の東といえばシバ――いや、それはもっと南か。シェズの入り江を抜けたすぐのところなら、メチェンの属国が幾つかあるくらいだったな。あの辺りはプントと貿易をしているから、セトが生きて流れ着けばそのままプント行きを続行するだろう。
 どうするも何も、オレには関係無いじゃないか。当初の計画通り、父上の御遺骸が掘り出されしだいウアセトに向かう。それだけだ。
 寝返りを打つ。寝台の木枠が軋んだ。その音に、何か考えそうになって、ユギは頭を振った。
 セト、セト、セト。オレはお前が憎い。父を殺し、我が族の神に矢を向けたお前が憎い。
 だが――オレは、本当にお前を憎んでいていいのか? 富裕州ヌブトの公。王座の二位の女の夫。王宮域に住み、王の子を養子としていた、男であって男でないもの。お前は、いったい、なんだったんだ?
 ユギの脳裏に幼い日の記憶が蘇る。それは優しい想い出だ。
 公館の戸を叩けば、政策を語る時には厳しい顔付きと口調を和らげ、覚えたての遊戯の相手をしてくれた。時々は先客がいて――それは大抵の場合父で、偶に母だったりしたが――そんな時には、少し困った顔をして、でも部屋に入れてくれた。我侭を言うと窘められ、だけど、何回かに一回は、父や母に内緒でそれを叶えてくれた。
 子供が好きだったのだと思う。女官や下男の子にも優しかったというから。だが、子供が好きなだけではなかったと思う。大人だけでいた時にも、例えば父と二人で庭にいたような時にも、そういう顔をしていたのを、見たことが、確かにあるのだ。
 セト。お前はなんだった。子供好きのくせに自分自身の子を設けず、王の子ばかりを養育していたお前。妻がいるのに宦官だったお前。お前は、どうしてそうだったんだ。
 ユギはもう一度頭を振った。目を閉じ、強引に眠りに就いた。


 そして予定通りに一週で先王の棺は砂中から取り出された。ウアセト行きの船が用意される。ユギたちはその日の内にメンネフェルを出港した。
「ウアセトまで一直線にというのは遠い。途中の町々で停泊しながら進むのがいいかと」
 進路についてはシモンがそう意見した。今やユギ側となった侯らを訪ねながら行くのは、その寝返りについて念を押すにもいいだろう。ユギが二つ返事で了承する。
 初めの停泊地はシェメヌとなった。夕刻になってシェメヌに辿り着いたユギたちは、数名を船の守に残し、シェメヌ侯の館に迎えられた。急なこと故に簡素ではあったものの宴も開かれ、シェメヌの町がユギを認めているのは明らかである。
 だが、その晩、ユギは己を認める町にはあるまじきものを、その好奇心によって見てしまった。
「――り給え。九柱の――よ、――給え――」
 その声は、ユギが何気なく近付いたシェメヌ侯の部屋から漏れ聞こえていた。こんな夜更けに、神への祈祷に聞こえるが、何を祈っているんだ? 不思議に思ったユギが部屋の戸に耳を付ける。盗み聞きなどいいものではないが、その時のユギには何故か扉を開けるのが躊躇われた。
「九柱の神々よ、護り給え」
 声が、はっきりとユギの耳に飛び込んできた。
「アトゥムよ、シュウよ、テフヌトよ。ゲブよ、ヌトよ。護り給え。ウシルよ、アセトよ、ネブト=ハトよ。かの方の族の神たる方よ。護り給え、東の海に迷いたる方を。その身をして国家を護りたる方を。九柱の神々よ、どうか護りたまえ」
 ユギは息を呑んだ。気付かれぬようにそっと扉から身体を離し、足早に与えられた部屋へ戻った。
 東の海、だけなら他の何かのことかもしれない。かの方の族の神、だけなら別の族だったかもしれない。だが、名を呼ばれた他の神々とともに九柱の内に数えられるのは、セトだ。人のセトではない。ヌブトの族神、つまりは人のセトの族の神のセトだ。
 紅海で嵐に遭ったセトの無事を、祈っていたのだ。シェメヌは自分に付いたにも拘らず。
 落ち着くと、ユギの心の内には怒りが湧いてきた。その方が町に有利だから自分の味方のような顔をしただけで、真実服従する気はないのだ。こんな町、すぐに出て行ってやる。そしてこちらも利用するだけしたら、なんの見返りも与えてやるものか――ユギはそう思い、しかし、数日の間にそれは難しいことを知った。
 その数日にユギが訪れた町の全てで、シェメヌと同じ事象が見られた。町を上げてユギを歓待し、しかしどこかではひっそりとセトの無事を祈る。全ての町で、その様子が見られた。


 ところで、船には、先王の遺骸へも一室が与えられている。旅路の数日目、ユギは思い立ってその部屋へ向かった。ソカルで掘り起こされた父の身体が傷んでいれば、ウアセトに着きしだいミイラの修復職人を呼ばねばならない。ならば早くに状態を確認しておくに越したことは無い。そう考えての行動だった。
 向かった部屋には人影があった。自分と同じように考えた誰かだろうかと、ユギは大して考えもせずに部屋へ入ろうとし、そこで、人影が何ごとか話しているのに気付いて立ち止まった。人影は一人分しか無かった。母の声だった。
「聞こえていますか」
 王座の女は、その夫だった人に話し掛けていた。
「聞こえているのなら、いいえ、聞こえていなくても、どうか助けて差し上げて下さい。アメン=ヘテプ。アンジェティ。死して神となった方。助けて差し上げて。貴方の――した人でしょう」
 淡々とした声の、終わりの一節をユギは聞き取れなかった。だが、それは多分、セトのことを言っているのだろうと思った。
 シェメヌやそのあとの町々と同じだ。ユギは溜め込んでいた怒りに任せて部屋に踏み込んだ。
「誰です」
 鋭い声を発しアイシスが振り返る。彼女はユギを見て警戒を解いた。
「入ってくるなら声くらいお掛けなさい」
「何を話しておられました」
 アイシスの注意を無視して、ユギは詰め寄った。
「母上までセトの無事を祈願とは」
「わたくし、まで?」
「シェメヌ、ネンネスート、ハトネスウ! 他の町々! どこの侯も、オレたちを歓迎しておきながら、人気が無くなると見るやセトのための祈祷だ」
 アイシスは表情を変えなかった。知らぬことだったが、予想の付くことではあった。アイシス自身もこうして祈ったのだから、同じようにするものがいてもおかしくはない。
「ケメヌで、オレのいうことは百万回も正しいとされた。マアトに反しているのはセトだと宣言された。セトが決定を認めずタァウイを出、勝手に嵐に遭ったんだ。だというのに、マアトに反する王位であったものに対して、誰も彼もが九柱の神々の加護を祈る。正しいとされたのはオレなのに、皆こぞってセトの無事を祈る!」
 ユギが不平を並べ終えても、アイシスはやはり表情を変えなかった。祈祷の時と同じ、淡々とした声で、息子よと言った。
「貴方が正しいと宣言されたのは事実です。セトの王位がマアトに適わぬのもそう。ですが、いいですか、マアトだけでは国は治まりません」
 王座の女の言うこととは思えぬ言葉だった。ユギが目を見張る。
「セトの王位は、マアトに適わぬとはいえ、不徳と呼ばれる類のものではありません。国家や州を巻き込んで神の怒りを買うようなものではないのです。それ故、事情を知るものはセトを責めはしない。責められるべきは他にあると知るものたちは、セトを責めはしない」
 アイシスは一拍置いてユギを見据えた。強い視線に、ユギは気圧されるようだった。
「この簒奪のあらまし、それに至るまでの経緯。ユギ、貴方もそろそろ解っているのでしょう。解っていることを認めなさい。――最初に言った筈です。わたくしの顔を見たいのならば、覚悟なさい、と」


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