セネト・パピルス 45
2010/6/26


 翌日、船はイティの港に繋がれた。元は立ち寄る予定の無かった町だが、ここからウアセトまでの間にはヌブトが存在する。セトの直轄領であったそこの、兵士はアシュやアスティルティト、アナトの族に身を寄せたとされているが、万一にもそれがユギたちを罠に嵌める偽りの情報であってはならない。偵察のものたちが様子を調べて帰ってくるまで、ユギはイティに滞在することとなった。
「ネフト? ネフトだろ、なぁ、おい!」
 船を降りたユギたちが、イティの公館に向かって歩いていると、鳥撃ち棒を持った一人の若い男からそう声が掛かった。警護の兵士が槍を構えようとし、ユギがそれを制止する。
「知り合いか?」
 傍らの少女が頷いた。
「私とジョーノがイティにいた時の――偶にはウアセトにも来ていたけど、ユギは会ったこと無かったかしら」
 どう致しますかと兵士が問う。ユギが通すよう答えると、若者は今更のように恐縮しながら一行に近付いてきた。
「ああ、やっぱりお前らだ。ずっと探してたんだぜ。オレが、じゃなくて神殿裏の遣り手婆様がだけど」
 婆なんて言ったら殺されるぞ、と、ジョーノがやってきた男を軽く小突いた。彼らは相当に親しいらしい。そのままじゃれ合いに発展しそうになったのをネフトが止めた。
「ちょっと、それで、探してたってどういうこと?」
「え? ああ、オレも詳しくは知らねぇよ。なんかネフトに伝言だって」
 ネフトがユギを振り返る。
「行ってくるといいさ。ああ、いや、オレも行っていいか。神殿裏のというとオレも世話になったからな」
「あいつ王宮にまで客を出してたのかよ!」
 鳥撃ち棒の男が思わずといった風情で声を上げた。ユギが笑いを堪えながら言う。
「違う違う、そういう世話じゃない。最初の造反の時、セトの追っ手から逃げるのを手伝ってもらったんだ」
 自分の勘違いに気付いて赤くなった男に、ネフトが、馬鹿、と冷めた声を投げ掛けた。


 神殿裏の遣り手婆――というにはまだ若く美貌の女は、連れ立ってきたユギたちを見るなり、あら、と大仰に驚いてみせた。
「あぁ、そういうことね。通りで見ない筈だわ」
 女は、豊かな乳房を揺らしながら、弾みを付けて、側にあった木箱に腰掛けた。色石で作られた蝶の首下げ飾りが宙を舞う。ユギには、既視感のある光景だった。
「そういうことだったんならアタシがわざわざ伝えるまでもないのかしら? けど、ま、いいわ。ネフト」
「な、何?」
「そこの王子様が、この間アンタの踊りに見惚れたって言ってたわよ」
 一瞬、全員が黙り込んだ。この間。この間とはいつのことだ?
「……今それを言うのか」
「だってずっと伝える機会が無かったのよ。ウアセトの政変の翌日だったかしら? もうちょっとあとだったかしら? あれから大変だったみたいだけど、今はどうなの」
 難しい政の話を聞きたいわけではないだろう。皆もう落ち着けるの、と、そういうことだ。
「――随分とましにはなったが、もう暫くはごたつくな。セトが亡命したのはいいが、オレにもまだ王座の女はいない」
 人心を完全に掌握するにはまだ不足がある。それを理解するようになっただけ、それこそがましだと、もしこの場にアイシスやシモン、ケメヌ公がいたら、思っただろうが。
「王座の女、ね。偉い人ってのは本当大変そうだわ」
 そう。この代の王座の女は数少なく、その少ない女も、既に夫を持つものばかり。未亡人である母と形ばかりの婚礼を上げるか、或いはセトが置いていった叔母か。ユギに選択肢は少なく、そしてどちらを選んでも問題が残る。神妻はどうするのか。正式に離縁や死別したわけではないものと重ねて婚姻を結ぶのか。
「あぁ、そうだわ、ねぇ。貴方、こんな話を知ってる? 昔、イティの侯だか侯子だかがその王座の女って人と不貞を働いたって話」
 唐突に振られた話に、ユギは戸惑いながら頷いた。
「知っているが……オレの曽祖父の治世年間のことだろう。とっくに恩赦が出た過去の話だ」
「ええ。でも、それが実は過去の話とも言い切れないのよ」
 女は木箱の上で足を組み変えると、物語を話すような調子で先を続けた。

    昔々、高貴なる姫君がイティのほとりにやってきて
    たった一晩、愛する人と逢瀬を交わした
    逢瀬が終わると姫君は
    元の夫に連れられて元の家に戻り
    二度と恋人と会うことは無かったが
    逢瀬の証は姫君の腹に宿り
    然る時間ののちに地上へ生れ落ちた――

 女はそこで物語口調をやめた。
「ねぇ、貴方、ネフトの本当の名前を知っていて?」
「ネフトの? アンズだろう」
「アンズ。そうよ。アァ=ン=ジュウ。罪の偉大なるもの。ねぇ、貴方、ネフトがどうしてそんな名前を付けられたのか知っていて? この子の名前は祖母や母親と同じなのだけれど、彼女たちはどうしてそんな名前なのだと思う?」
 全員が顔を見合わせた。ネフト――アンズ本人も、虚を衝かれたような表情をしていた。
 然る時間ののちに地上へ生まれ落ちた――だが王家にそれを示す系譜の繋がりは無い。真実を隠し王との間の子にしたという形跡も無い。生れ落ち、神殿裏に、預けられた? もしくは、捨てられた?
「まさか。そうなのか? ネフトが、本当に?」
「ええ。――嘘よ」
 嘘。女は繰り返し言った。
「嘘よ。でも、貴方今信じたでしょ?」


 ヌブトからの偵察隊が戻ると、ユギたちは再びナイルに船を浮かべた。ユギの王位の正当性はますます増し、もはや誰の目にもそれは疑いない。
 ウアセトに着くと、ユギはすぐに父王の遺骸を正しき墓所に納めるよう指示を出した。幸いミイラは一部分が欠けたままであることを覗き修復の必要も無い状態である。その一部分に関しては、メンネフェルからの道中アケタテンに立ち寄り再び探すということもしていたのだが、結局見付からなかったのだ。修復はしたくともできない。ユギの言葉は直ちに実行された。
 夕刻、休息をとなって、ユギとアンプはかつての自分たちの部屋へ入った。三つ並んだ王子たちの部屋。片面の窓からは王宮前の広場を眺めることができる。もう片面からは、王妃宮、そしてヌブト公館、公妃館が見えた。
 王妃宮と公妃館には灯りが点いている。それぞれアイシスとマナがいるのだ。
 ユギは窓辺から離れ寝台へ仰向けになった。寝てしまおうか。それとも久方振りの自室だ、人を呼んで夜通し遊戯でもするか? ユギが決めあぐねていると、戸口でがたりと音が鳴った。
「誰――なんだ、お前は、母上の侍臣ではないか」
 大柄な男だ。彼は跪き、胸の前に腕を交差させると、本日は、と潜めた声を出した。
「本日は、アイシス様の使いではなき用にて参りました」
「母上の使いではない?」
「さように。この晩は、このリシド、他なる方の使いにて御座います」
 男は書簡らしきものを持っていた。それをユギに差し出した。
「西の谷のマリク様より預かり来たりました。どうかご覧下さい」
 ユギが受け取って留め紐を解く。メフウ紙の冒頭に、鎌と台座、口と胎盤と書物を組み合わせた文字の列が記されていた。
「マリク。マァ=レク、知識正しきもの、か。いかにもな偽名だな」
 男は何も反応を示さなかった。広げたメフウ紙には、簡単な地図が書かれていた。
「それで、お前の主はオレにどうしろと? この地図の場所にでも行けばいいのか?」
「はい。そこに貴方の見るべきものがあると、マリク様は仰せです」
 西岸の渓谷の地図だ。西岸といえば死者の領域。そんなところに何があるというのか。ユギはこのリシドと名乗る男が今まで母を欺いていたセト側或いは他の不届きものの密偵ではないかと考え、すぐに、その可能性を否定した。そうであれば、こんなもったいぶった方法で自分を誘き出さずとも、今、この場で自分を殺してしまえばいいのだ。


 結局、男が去ると、ユギはアンプを誘って地図の場所に向かうことにした。気楽な王子時代のように王宮域を抜け出し、ナイルの河べりに繋いであった葦舟を一つ拝借して西岸へ渡る。地図の場所はそう遠くないところだった。
「……この階段。ここを降りるのかな?」
「多分。他に道も無いし、これだろう」
 ユギたちが階段を降りると、そこは小さな部屋になっていた。供物台のようなものがあって、しかしその上にはパンや肉でなくメフウ紙の束が載せられていた。
「相棒。灯りをくれ」
 一枚目の文書は行政用の簡易文字で書かれていた。古い書は、何故かところどころが破れたりしていたが、内容を把握するには差し支えなかった。
「ウェジュの守――アクナディンがアメン=ラァの次席神官ヘイシーン殿に申し上げる――近頃お加減の――――ムカノン王の御ため、貴殿の副官――を王宮に――よう――」
「これって。ヘイシーンが次席神官の時の副官って」
 ユギが急いた様子で書を繰った。二枚目は、同じ行政文字だったが、一枚目と異なりユギたちに見覚えのある筆跡で書かれていた。
「偉大なる王――――共同統治者アテム・アメン=ヘテプが言う。――執り行われる日の下に現れるための儀に関して――」
「――また、王宮の――――に現アメン=ラァ大神殿の神官セトを任命する」
 アンプの手が、ユギを急かすようにメフウ紙に触れた。ユギが三枚目の書を表にする。
「上下二国の――王アテム・アメン=ヘテプに――のヘイシーンが申し上げる。陛下がお望みの――は――において功績偉大であり――――ただ王宮に差し上げるは故無きことと――。しからば神の喪失を埋めんがため、去るものと同じ重さの黄金を奉納給われるべく――」
 四枚目、五枚目、次々にユギたちはそれを読み進めた。六枚目の書は、メフウ紙でなく質の悪い布に書き付けられていた。ところどころが焼け焦げていた。
「民事判事長カリム様にウアセトの下級書記――が願い奉る。この頃町を騒がす――と神官様の噂について――――町の民これを不服とし――」
「嘆願書だ」
「みたいだな。カリム。聞いたことの無い名だ。ずっと昔の嘆願らしい」
 次の書、七枚目からは、保管状態が変わっていた。七枚目からは、どこも、破れたり焦げたりしていない。
「町の修復に関する経過報告書――ああ、そうか。昔一度、内乱で王宮が崩れたというから、今までのはそれまでの書か。だから傷んでたんだな」
 そしてユギは八枚目を表にした。
「シバの国より来たる医師に、アテム・アメン=ヘテプがのりたまわすこと」
 読み下す声が、そこで、出なくなった。嘘だと言い掛けたユギが唇を噛む。その書はまごうこと無く父の字で書かれていた。
「ト、を、我が宦官と……」
「あれ、を、父上が? だが、そうだとしたら」
 ユギが息を呑む。言えぬこと。その意味が、彼の舌を痺れさせた。何故そうする必要があったのか。王宮域に並び立つ四館の、その主たちの関係の不自然さは何故であったのか。
 言えぬ、わけだ。言えば国家に関する不徳を明らぶことになるのだとは。
 次の書には王家の二位の姫とヌブト公子の婚姻についてが書かれていた。その次はヌブト公家への恩赦の宣旨書だった。十一枚目からは、普通の行政文書が続き、最後の二枚は一組になっていた。
「各侯家に配分されるべき戦費、凡そ全てアメン=ラァ神殿に収められたり。戦力拮抗なるは神の御力により、供物途切れさせるべからずとは、些か過大な申し出と思われるがいかがか――」
「大神殿は我が族の神を奉るもの、その申し出にも一理あるものと思われる。戦費の確保は無論、戦勝の祈願も怠らぬよう――」
 ユギは震える手でメフウ紙の束を供物台に戻した。取り上げる時には軽かった束が、置く時には酷く重く感じられた。
「ねえ、マリクって」
 アンプがユギの腕を引いた。ユギが頷く。
 古い保管文書を王宮から持ち出せるもの。保管文書を読み、内容を理解し、選別できるもの。ユギたちがいない間の王宮の警備は無いも同然だったという。だから、王宮の作りにさえ詳しければ、保管庫へ入ることは簡単だった筈だ。だが、膨大な文書の中から目的のものを取り出すのは、普通の書記や神官には不可能だっただろう。もっと、王家の事情に精通していた――王家の内側にいた人間でなければ、不可能だっただろう。
「進もう。奥に、まだ、部屋があるようだから」
「うん……」


 奥の部屋には、一枚の石碑が据えられていた。石碑は倒れぬようにか日干し煉瓦で下部を覆われていて、その隙間から、高位の神官が使うような、格の高い聖刻文字が彫られているのが見えた。
「これ、なんて書いてあるんだろう。キミ読める?」
 その、マリクと名乗るものは、読めたのだろう。だがユギは頭を捻った。これがもう少し崩れた神官文字なら二人のユギにも難無く読めたのだが、彼らにとって、聖刻文字とは代筆書記にでも書かせるものだった。所々読むことはできても、全体を把握することは難しい。
「横たわる……像? 違うな、屍だ。こっちは魂だから……死者への祈りか?」
 二人のユギが読めなかった石碑には、こう記されていた。

    屍は横たわる
    器は砂となり塵となり――
    黄金さえも剣さえも
    時の鞘に身を包む――
    骸に王の名は無し
    時は魂の戦場――
    我は叫ぶ
    闘いの詩を
    友の詩を
    遥か魂の交差する場所に
    我を導け

 碑文の示す通り、石碑にも王名表にも、この王の名が残されることは無かった。一度は記された名すら人の手により削り取られている。
 骸に王の名は無し。これは、タァウイにおいて間々あることであった。時に憎しみが、時に政治的な事情が、古き王の存在を闇に葬り去らなくてはならぬと言う。
「アテム・アメン=ヘテプ……?」
 ユギの呟きが地下室に木霊した。碑文を読めたわけではない。まして、そこに王の名が残されていたわけでもない。実を言えばユギたちの見逃した箇所には王の姿が描かれていたのだが、それに気付いたわけでもない。ただ、そんな気がしたのだ。
「どういうこと?」
「確証は無いんだ。だが比較的新しい碑に見えるし、削り取られた王の名も、父上のものだとすれば説明が付く」
 違う。言いながら、ユギは己の心臓の声を聞いた。
 そんな理由ではない。そんな気がしたのは、ファラオ、と、そう呼ぶ声が耳をついて離れぬからだ。父を憎んでしかるべきセトが、正気を失い呼んだのは父であったということ、それを知っているからだ。
 憎んだだろうと思う。だが、憎しみに寄り添う感情もきっとあったのだ。全てが時の鞘に身を包んだその時、石碑を建て悼むほどには。幻影に縋り名を呼ぶほどには。それを知っているから、だからそう思うのだ。
「行こう。相棒。もう行かないと朝になる」


 階段を上がって地上に出たユギたちを、待ち構えていたのはリシドだった。彼は一枚のメフウ紙をユギに渡した。
「マリク様が一枚置き忘れたと。お父上の手によるものでは御座いませんが」
 暗くて、内容は読めなかった。受け取るだけ受け取って、ユギは男に問うた。
「リシド。その『マリク様』のこと――マリクと名乗るもの正体について、母上はご存知か?」
「いいえ。申し上げておりません。私がザウでアイシス様にお仕えできたのはマリク様の手回しあってで御座いますが、それも含めお教えせぬよう言い付かっております」
 どうして、と、半ば叫ぶようにアンプが言う。男は、自らの非を詫びるようにこうべを垂れた。
「自らは死者の領域地下深くに住むものであり、生者の領域に住む人がそのようなものに気を止めるべきではない。マリク様は、そう仰せです」


 帰りの葦舟を漕ぎながら、二人のユギは無言だった。互いに、何を話していいのか解らない。知らなければ楽だったことを一時に知ってしまって、彼らは混乱していた。
 もう今までのようにはセトを憎めない。今までのようにはアメン=ラァを信頼できない。だったら、どうすればいい。
 ユギの凝り固まった心臓には血が送られ、曇った瞳には薬が点された。機は、ついに熟した。


第五章 我が面布を掲ぐるものよ 終


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マァ=レク:「知識正しきもの」の意。