セネト・パピルス 46
2010/7/11


第六章 マアトよ見そなわせ


 ウアセトでユギの眼が開かれたその頃、アソ号は紅海を東の海岸伝いに航行し、シバとの海峡を経、やっとの思いでプントの港に辿り着いていた。
 さよう。嵐に流された船は、幸いにも沈むこと無くその後の航海を続けていたのである。
「我がプントへようこそ!」
 流暢なタァウイ語だった。桟橋に降りたセトが声に横を向く。黒蛇たちと同じ黒い肌の男――青年――少年が、金鏤に身を包みそこに立っていた。黒蛇たちがさっと膝を附く。
「プント……王?」
 若い。ひょっとするとユギよりも。今でこの若さなら、計画の初めにはいったい――?
「お会いできて嬉しい。タァウイ王。嵐に遭ったと聞き心配を」
「――こちらも、我が身を引き受けて頂き嬉しく思う」
 動揺を隠すようにセトが言うと、プントの王はにこりと人好きのする笑みを湛えた。
「どうぞ気楽に。道を同じくする盟友として、ええと、貴方々の言葉で言うと、確か、……そう、兄弟のように、思って欲しい」
 きょうだいという単語が指し示すものは、タァウイでは三つある。一つは血の繋がり。もう一つは恋愛関係にある異性を呼ぶもの。最後は尊び合いながらも親密である関係を表し、今、プント王が言ったのはその意味であった。
「随分と我が国の言葉に堪能なようだ」
「貿易国家の王として、これでも勉強を。さて、兄よ、先ずは都へ案内しよう。長旅でお疲れだろうけれども、あまりゆっくりすると『雨』が降り出してしまうから」


 用意された輿は、タァウイのものとは少し異なっていた。籠が無く担ぎ棒と椅子で組まれた形はタァウイにもあるものだが、プントのそれは一層椅子の部分が目立っている。
 移動する椅子の上から、セトは辺りを見渡した。近くは平たい草地、遠くにはやはり緑に覆われた山が存在し、どちらにも、タァウイでは見られないような、背の高い木や草が生えている。
 町の中に入ると、セトは驚かねばならなかった。プントでは、家という家が、空中に浮いている。正確には高さのある木組みの枠を土台に辺りの木々を支えとし建っているのだが、それは柔い木材しか取れないタァウイのものには信じられぬ光景であった。人々は梯子を上り下りして生活している。そして、その戸口には、どの家も、上等の乳香を燻らせていた。
 プントの都の、中心部へ近付くと、セトの頭上に何か軽くて小さなものが振り撒かれた。見上げると、やはり高床になっている建物の窓から、若い娘が取り取りの花びらを集めた籠を引っ繰り返し微笑んでいる。乙女の黒い肌に、艶やかな紅玉髄の胸飾りが映えていた。
 隣の家の窓にも子供が出てくる。子供は、金の指輪を付けた指で、干した果実のようなものを鷲掴みにして投げた。それも、薄赤いもの、鮮やかに黄色いもの、暗い紫のもの、多様性に富んでいる。
 前方に王宮が見えてきた。一般の家より大きく頑丈に組まれた木枠の下には水路が流れ、涼やかな風が吹く度に水面をさざめかせている。透き通った水の中には魚の泳ぐ姿も見えた。
 金と乳香を産出し、貿易に富み、巨大な植物が生い茂る涼やかな地。見知らぬ筈のその光景を、セトは知っていると思った。現実には知らぬ――だが、プントは、タァウイで人々がしきりに目指す来世の楽園、即ちイアル野の、理想そのものであったのだ。


「富める国と噂には聞いていたが、これほどのものとは」
 宮殿で、セトに貸し出された部屋もまた豪奢であった。床には麒麟の毛皮が敷かれ、椅子には象牙細工が嵌め込まれている。
「大国タァウイの王に褒められるとは光栄だな。ここにいる間は幾らでも良いように過ごしてもらいたい。なんなら、ずっといてくれても」
 プント王の軽口にセトが苦笑を返す。
「有り難い申し出だが、私はやはりタァウイの人間だ。アメン=ラァを抑え、二国が正しき姿に立ち返るのを見、そして逝き先が冥界の底であろうともナイルの畔に没せねば気が済まない。それに、そちらとて、私がここにいるままでは困るのではないか? 大国タァウイを望むものとしては」
 プント王が肩を竦めた。
「歓迎する気持ちは、それだけあるのだけれども――このような情勢でなければ」
「私も、このような情勢でなければ長居をしたいところだったが」
 セトが窓の外を見た。海側の窓は、紅海を臨んでいる。振り出した『雨』――タァウイの言葉で無理矢理に表現するならば天から静かに降り注ぐ無数の水滴――に阻まれぼんやりとしか見えない海を、天青石の瞳が睨んだ。
「私はタァウイに帰らねばならん。態勢を整え、ヌブトの涸れ谷からウアセトへ。帰って、すべきことをせねばなるまいよ」


 そして。
 『雨』無き国タァウイの、ウアセトの自室で、ユギはメフウ紙を眺めていた。かの晩、最後にリシドから手渡されたそれである。もう何度読み返したか知れないが、それを読む度、ユギは目の奥が疼く気がした。
 おお睡蓮の花よ、我が愛しのセシェン……
 清書ではない、女官の習作のようだった。昔、女官に恋愛詩を作らせ意中の人へ贈るのが流行ったということは、知っている。これもその一種なのだろう。我が、というその単語に王を表す文字が使われているところからすると、これを作らせたのは時の王、即ちアテム・アメン=ヘテプだ。
 王が、誰かに贈った詩。誰に。細く長い茎と青い花びら、睡蓮のそれが特徴となるような人――それは、多分、痩身長躯に青い瞳を持つ、セトだったのだろう。
 恋愛詩。セトはこれを受け取ったのだろうか。この想いを受け入れたのだろうか。
 全く受け入れなかったのだとしたら、あんな穏やかな日々は存在しなかった、と思う。だとしたらどうして、その日々を捨ててまで、惨い簒奪が行われなければならなかった。どうして、セトが。
 ユギの手許でメフウ紙がくしゃりと音を立てた。解っているのだ。もう、理由なんて。
 アメン=ラァ。父が信奉していた王都の神。自分が信頼し身を預けていた族の神。だが、考えてみれば、自分は元々アメン=ラァの大神殿を嫌っていたのではなかったか?
 態度の大きな大神殿。神に仕える身でありながら地上の政に口を出し、自分はそれを不敬だと思っていた筈だ。セトだけでなく母もシモンも大神殿には否定的だった。それを知っていたし、彼らの言うことに幼心にも納得していた。
 オレは、いつ、馬鹿になったんだ。
 母の館にいた頃はそうじゃなかった。この部屋に移って、王宮に馴染むようになって、それからだ。取り入ってくるようになった神官や官僚の甘言に流されて、それで。
 オレは馬鹿だ。
 ユギは立ち上がった。部屋を出、王宮の庭へ降りる。四辻を王妃宮の方角に走った。


 アイシス・アメン=ヘテプは、一枚の書を握り締めやってきた我が子を、その戸口で出迎えた。
「どうかしましたか。そんなに走って」
「これ、を」
 握っていたメフウ紙をユギがアイシスに見えるよう広げる。
「それは……また、懐かしいものを」
「見付けました。他にも、多くのものを。見付けました。母上」
 ユギの声は知らず震えていた。王座の女が彼の手に触れ、書を伏せさせる。
「母上、今になって、漸くそのご尊顔を拝謁する覚悟固まりました。遅きに失し、このような状況を招いたこと、国家とその主にいかに謝ればよいのか――」
 そこで、アイシスはユギが話すのをやめさせた。目を閉じて一つ頷き、息を吸って、吐いて、瞼を開いた。
「純粋な子供がいつしか損得を覚え傲慢な若者になり――そして、そののち、冷静な判断力というものを備えることができたなら、大人へと変わる」
 静かな言葉だった。ユギは、じっと、母の唇を見詰めていた。
「息子よ。貴方は大人に成り得ましたか」
「はい――はい、母上」
「ならば重畳。まだ遅いということは無い」
 アイシス・アメン=ヘテプが王宮を振り仰ぐ。
「シモン様をお呼びしてきてもらえますか。あの方も苦労をなさった。報われる時が来たと、教えて差し上げねばなりません」


 ユギがシモンを連れて王妃宮に戻ってきた時、そこには、アンプとマナも付き従っていた。アイシスが目を丸くして二人を見る。
「母上。相棒とは一緒に先の書らを見ました」
「そう……でしたか。マナ、は」
 かつての少女は、微笑んで、言った。
「私は、やっぱりセト様を好きにはなれないし、アイシス様の話を難しいと思う。私の王座に座る人は私を愛する人であって欲しかったし、夫婦で仲良く子供を育てるというのもやってみたかった。けど、私だって、二位とはいえ王座の女だわ。私を、二位とはいえ王座の女だって、仰ったのアイシス様じゃない。もう、昔のことに、なってしまったけど」
 そうね、と、アイシスは答えた。一呼吸置き、それから、どうでしょうかと問うた。
「どうでしょうか、シモン様。この国の行き着く先を、大宰相様、お導き頂けますか」
「我が菜料地の神に懸けて。今度こそ、正しくそれを為そう」
 老人はその縮んだ背を伸ばし、一同の上に視線を巡らせた。
「然らば、考えねばならぬことは一つ。アメン=ラァをどのように抑えるかじゃ」
「直接戦う、っていうのは?」
「駄目だ、相棒。兵力が違い過ぎる。王宮の正規軍はセトの私兵上がりのものが抜けて殆ど用を成さない半面、アメン=ラァは各地にその手のものを忍ばせている。各州侯に徴兵を命じても、兵が集まる前に先手を取られてしまう」
 味方と思っていた時には頼もしかったが、敵に回せばなんと厄介な相手だろうか。先手を取られぬよう隠れて密書を回そうにも、どこで誰が裏切るか分からない。
 まず安全だと解るのはケメヌとヌブトくらいのものだが、その内ヌブトは司を失い兵もアシュやその姉妹族の下に身を寄せているという。
「そうだ、結局、セトは無事だったんだろうか」
 ユギが呟く。恐らく、と答えたのはアイシスだった。
「アシュやアスティルティト、アナトの動きに変わりが無いことから推察すると。嵐の報せからは随分経ち、いまだ消息不明だとすれば、彼女たちの許へプントからの連絡が行っている筈。セトがいなければタァウイでの行動に大義を失う彼女らが、当初の通り国境の周辺に待機しているというのは、そういうことでしょう」
「アイシスの言う通りじゃな。そして、待機しているということは、セト側にはまだ戦う意思がある。プントで態勢を立て直し――アケトじゃな。アケトに、水が満ちたヌブトの涸れ谷を使い、ウアセトへ迫るつもりじゃろう」
 涸れ谷から来られれば、大神殿とてウアセトを戦場にせざるを得ない。セトの軍が涸れ谷を通り抜ける前に叩くという戦法もあるにはあるが、それは土地勘のあるセトに有利な話だ。
「そうなると……あの白い姉妹と手を組むことはできないだろうか」
 アイシスとシモンが顔を見合わせた。
「それは……そんなことができるじゃろうか?」
「あの姉妹とは、話せば分かり合えると思いますけれど……誰を使者に? もしもアメン=ラァに漏れれば、どのような言いわけも聞かないのですよ」
 タァウイの中で回す話なら、言葉を曖昧にすることで、外敵への備えの話だと誤魔化すことも可能だ。だがその外敵に使者を送るとなるとそうもいかない。信頼の置ける、そして向こうからも信頼される使者を立てる必要がある。
「その話、私めにお任せ頂けませんか」
 唐突に、言ったのはリシドだった。アイシスがアメン=ラァによって追放されていた折からの侍臣であり、アメン=ラァと結ぶことが無いと解っているから存在を許されていたが、彼は話の参加者ではない。主たちの会話に口を挟むなど、本来は許されぬことだ。しかしユギは理由を話すよう彼を促した。
「私の知る方に、大神殿を厭い、かの族の方々と繋がりを持つ方がいらっしゃるのです。難点は、人前に出ることを嫌い、陰ながら動くことしかしない方ということですが、私が会って頼むことはできるものと思います」
「ではそなた、そのような正体知れぬものを頼れと言うのか」
 シモンが鼻息を荒くする。アイシスとマナも不安げに顔を見合わせたが、ユギは平伏した男の顔を上げさせた。
「いいだろう」
「王子! いったい、何をお考えに」
「いいんだ、シモン。その正体知れぬもの、オレには心当たりがある。彼になら、任せても大丈夫だ」


 白い姉妹たちへの密書はシモンが書いた。三通の手紙と、庭で捕まえた三羽の鳩を連れて、リシドが隠れたる人の許へ向かったのはその晩の内である。朝になって帰ってきた彼は、使者の役を無事頼めたということ、使者がもう北へ出立したということを、ユギたちに伝えた。
「助力を、得られるといいんだが」
「アメン=ラァを抑え王子に戴冠させるというのは元々セトの本懐である筈。書簡さえ彼女らに届けば……王子、本当にあのような怪しげな使者を立ててよかったのですか」
 自分の書いた書の行方をシモンが案じる。ユギは、頷き、その場にリシドもアイシスもいないのを確認してから、老爺の耳元に口を寄せるべくそっと身を屈めた。
「そうだな、シモンには言っておくか。その使者だが、正体はナムだ。今はマリクと名乗っていて、オレも直接に会ったことは無いから確かだとは言えないが、まず違いないだろう」
「な、――なんと? ナム。ナム、と?」
「そうだ。他の人間にしては王宮のことに、王家のことに詳し過ぎる。王宮の保管文書からアメン=ラァの危険性を示すものや父上のしたことを示す書を選り抜き、セトに近しくなければ知らないだろう場所で、それをオレが見るように仕向けてきた」
 シモンの目が見開かれる。
「そう、で、御座いましたか。先の書というのは、そのことに」
「アイツのお蔭で、オレは曖昧だった認識を全て一つに繋げて見ることができた」
 ユギは屈めていた腰を元に戻し、胸を張って、老爺の名を呼んだ。
「シモン。三代に渡りお前には苦労を掛けた。まだ暫くは楽をさせてやれないが、構わないと言ってくれるか」
 大宰相の老いた目に、透明な光が集まった。光が溢れ、零れ、口許の覆いに吸い取られる。
「過分なお言葉に御座います。何もかも我が身の不徳が招きしことなりますれば」
「シモン。お前がそう思わねばならぬこと自体に、オレは謝りたい」
 老爺は言葉にならぬ声を震わせてその場に頽れた。十五年以上もの間休まることの無かった心が、やっと、安息を得たような心地だった。


<BACK NEXT>