セネト・パピルス 47
2010/7/24


 一羽目の鳩が帰ってきたのは一週後のことである。最も近いチェヘヌウ砂漠のアシュ族から戻された鳩は、足に極小さな木片を括り付けられていた。手を組むことについて、簡潔に、了承の意が記されている。
 そして二羽目は、これもまたアシュからの鳩だった。アスティルティトとアナトは揃って陣を構えているため、伝令も一羽で用を足せると判断されたものだろう。二羽目の木片に書かれた情報は、僅かに日時と場所のみであった。
「シェムウ二の月の三週の初めの真昼、彫金工房の南。ここへ来いという意味だろうな」
 ユギがそれを読み上げると、人々は一様にその内容を訝った。彫金工房は神殿とも王宮とも近い位置にあるのだ。隣接しているとまではいかないが、タァウイにそう多いわけでもない白い肌は遠目にも目立って仕方が無いだろう。アシュの人間ではなくセトの兵であったものから遣いを寄越すのだとしても、使者の責を負えるほどなら、ある程度は高い地位にあったものの筈だ。それは大神殿にも顔を知られている。
「ともかく、行ってみないことには解りませんね」
「でも、誰が?」
 アンプが問う。人々の視線が互いの上を行き来した。誰が行けばアシュの信頼を得ることができるか。アメン=ラァの目を掻い潜ることができるか。
「オレが行く」
 言ったのはユギだった。
「オレが変わったことを、理解されるにはそれが一番だ」
「王子。確かに、それはその通りですが。王子の動きはアメン=ラァも注視するところ。危のうは御座いませぬか」
「シモン。オレが隠れて王宮を抜け出すのを得意なこと、お前はよくよく知っているだろう?」
 己の教育係であり、何度も講義をすっぽかし町へ出ては怒られた相手に、ユギが笑い掛ける。シモンが一つ嘆息した。
「オレが行く。行って、必ずアシュの信頼を得てくる」
 ユギの決意は固い。


 指定の日、後宮への通路を横に逸れまんまと王宮を抜け出したユギは、町の人間のような格好をして、彫金工房の南へ向かった。この時勢では誰も彼も服飾に贅を凝らしている場合ではないのか、工房の周辺は静まり返っている。数名の女が通りを歩いていたが、彼女たちの肌はユギと同じ褐色だった。
 まだ来ていないのか? 思ったユギが目立たぬ路地に入ろうとした時、日除け布を被った女が彼に声を掛けた。そこの方、と呼ぶ声にはどこか覚えがある。
「お待たせをしたようです」
「あ、ああ、いや」
 赤い肌の女は、近付いてみると、顔かたちにも見覚えがあった。直接に話したことは無いが、美々しい木箱を曳いて王宮へやってきた姿や、セトのメンネフェル遷都前に馬で王宮へ乗り付けた姿などに、酷似している。ただ、それらの場合、彼女の肌はセトのような白いものであったのだが。
「この皮膚が不思議ですか? 簡単なことです。香油に色粉を混ぜて塗っているだけ。その昔ヌブトの方々がなさっていたやり方です」
 女が日除け布を少し持ち上げる。その内側の髪はアシュの銀だった。
「こちらへ。話をするのにここでは人の通りがありますから」
 アシュの女主ネケトネチェルが工房の一棟を指し示す。
「この棟の窯は少し前から閉じられていて、誰も入ってきません」
「随分詳しいな」
「ウアセトへは数日前に着いたもので。この姿で色々と下調べを」
 棟の中は、ひやりと冷えていた。乾期シェムウの昼とは思えぬ心地好い温度が、屋内を満たしている。
「それで、殿下。マリク、と名乗る、方から話は聞きました。アメン=ラァを抑えんがため、私たちと――いえ、陛下、セト様と手を組みたいそうですね」
「あぁ。今更と罵ってくれて構わない。だが、オレは漸く全てを知ることができたんだ。アメン=ラァのことも、セトがどれほどの想いで王となったのかということも。オレを罵ってくれていい。だから、タァウイのために、どうかこの手を取ってくれないか」
 ユギが手を差し出す。アシュの女は、一瞬の驚きののち、自らの手をそこに重ね合わせた。
「遠慮無く、罵らせて頂きます。陛下が用意した穏便な王位譲渡の道を無にしてアメン=ラァの許に走った愚かな方。陛下の決して殺すなという仰せが無ければ、私はきっとメンネフェルの戦いで貴方の顔の際などでなく、心臓を目掛けて矢を射たでしょう。先のケメヌでは和議と言いながら話も聞かず、陛下をタァウイから追い出すような真似さえなさった。私は、決してそれを許せません」
 合わせられた手に重みが加わる。ユギにとっては、心理的な重さでもあった。ですが、と続けられた女の言葉は更に重い。ユギは噛み締めるようにしてそれを聞いた。
「陛下なら、許すと仰るでしょう。私は陛下と目的を共有するものですが、同時に、陛下に対し自族が恩を持つものでもあります。許せぬはそれ故ですが、同じわけによって、陛下が許すのなら、私も譲歩します。許せはしませんが、恨み言を申すのはこれきりとし、目的のため貴方の手を取ります」
 重ねられていただけの女の指先が、折り曲がってユギの手を掴んだ。慌ててユギも握り返す。幾らかして自然に手が解かれると、ネケトネチェルはもう冷静だった。
「そうと決まれば今後についてお話したいこともお聞きしたいことも多々あります。が、今は、一つだけ申しましょう」
「一つ?」
「ええ。他をお伝えし話し合うには時間が無い。まずは、数日中にケメヌへお越し下さい」
 女が声を低くする。声量も下げ、ユギに近付いた。
「いいですか、必ず、数日中です。早ければ早いほどいい」
「ケメヌに、何故だ? それもそう急いで」
 ユギが問うと、ネケトネチェルは更に声を潜めた。耳打ちのような姿勢になった。
「お気付きでないのですか。アメン=ラァは貴方々の転身を悟っています。傀儡でなくなった貴方は彼らにとって邪魔なもの。急いでウアセトからお逃げ下さい。大神殿が、貴方々を取り除き王宮を彼ら自身のものにしようと、既に計画を立てています」
「な、まさか、奴らには王座の女も、その血すらも」
「そんなことは問題になりません。王権でなく王朝を争うとなれば、王座の女とて新たに定め直される。民の混乱はひとしおでしょうが」
 ユギが眉を寄せた。これ以上民衆を翻弄するのは良くない。不安が募れば国家の土台も危うくなるし、何より、多くの人間が不安の中で生活しなければならないこと自体が忍びない。しかし、いったいどこから漏れたというのか。話し合いには常に最小限の人間しかいなかったというのに。それに。
「こんな情報どうやって? オレたちには断片すら感じられなかった」
「それは向こうも警戒しているのでしょう」
 女が、室内にも拘らず日除けの布を被り直す。僅かに零れていた銀の髪が、再び隠された。
「不思議なものです。この格好でいると、誰も私がアシュだとは気付かない。タァウイ風の鬘を被り、雑役女のようななりをすれば、神殿の中すら自在に歩き回れる。皆、アシュを警戒するあまり、赤い肌の女には注目一つしない」
 雑役女の格好といえば胸も肩も剥き出しにした簡素なものだ。肌の見える面積が多いほど、却って目晦ましになる。そしてそのような身分低き出入り女の存在など、一々把握しているものはいない。
「ですが、本当に不思議なものです。貴方のように若い方が気付かぬのならまだしも、その昔陛下がこの方法をお使いだったと知るものさえ私を見逃すのですから」
 慢心なのでしょうねと女は付け足したが、ユギの意識はその前の部分に持っていかれていた。自分の知らぬ時代。白い肌が忌み嫌われた時代があったと、聞いてはいる。マリクの揃えた書の中でも、ヌブト恩赦に関して白い肌を嫌うなという令が出されていたのを見た。だが、肌を隠さねばならぬほどだったとは。
 ユギには、目の前の女がセトを慕う気持ちが解るような気がした。女は、セトよりは若いが、恩赦の頃には既に生まれていただろう。彼らは他族でありながら同族なのだ。同じ苦難を知るということが、二人を強く結び付けているのだ。
 考え込むユギに、ネケトネチェルが表情を和らげる。母とも叔母とも違う、年上の女の顔だった。
「策高き先王妃様までいて何故にと思いましたが。気付かれる筈です。以前とは顔付きまで違う」
「そう、だろうか」
「ええ。――では、かならずケメヌへ。私も大神殿の動く日取りまでは調べられなかった。可能な限りお急ぎを。もし道の助けが必要ならペル・ネフェルの裏の民家をお頼り下さい。私か、私の部下が常に待機しています」
 女の言葉にユギが了承の意を返す。工房の扉をネケトネチェルが開けた。二人揃って外へ出、ユギが空を見上げる。太陽の位置は棟に入る前と然程変わっていなかった。
 短い時間の会話だったのだ。ユギにはそれが信じられない。感覚の上では、もっと長い時間、話していた。
「お気を付けてお帰りを」
「ああ。そちらも」
 二人はそこで別れ、ユギは女がペル・ネフェルとも王宮とも異なる方角へ歩き出すのを見送って帰路へ着いた。来た時と同じように、後宮へ通じる横道から王宮へ戻る。自室へゆくと、アンプとシモンが待ち構えていた。
「もう一人のボク! どうだった? 巧く話せた?」
「ああ。多分、信頼されたのだと思う。重要なことを一つ聞いた」
「重要な、とは」
 シモンが身を乗り出す。ユギは二人に近く寄るよう手招くと、聞いたばかりの状況を二人に披露した。
「まさか――既に、勘付かれていたと。王子、その話は確かなのですか」
「嘘を吐く利点がアシュにあるか? 行き先に指定されたのはケメヌだ。お前の家だぞ、シモン」
「本当だとしたら、早く他の皆にも知らせないと」
 アンプが窓から王妃宮を見る。最近はマナもそちらにいることが多い。今も、そうだろう。
 三人は階下へ降り庭へ出た。走りたがる心を抑え、平常のように王妃宮へ向かう。戸を叩き、リシドに迎え入れられると、三人は途端に焦りを行動に現した。
「どうしたのです、アシュの女主との話で何かありましたか」
「はい。そうです、彼女から聞いた話で、火急の件が一つ。こちらが心変えしたことアメン=ラァに悟られているらしく、それで、大神殿が、我々を討ち取って王宮を制圧すべく企んでいるようです」
 すっと、アイシスの顔色が消えた。彼女は、既に一度アメン=ラァの諜報力の高さを体感している。もしセトにそれが届いていれば今日の苦境は無かったかもしれない手紙をアメン=ラァに握り潰されたと知った時の、絶望が、彼女の心臓にまざまざと蘇った。
「アシュの女主はケメヌに逃げろと言いました」
「それって、急いだ方がいいのかしら」
 マナが問い掛けたが、彼女も、答は解っていた。急ぐべきに決まっている。大神殿の計画日は分からないが、分かっていたとしても、何かが原因で前倒しになるということはありうるのだ。
「すぐに出た方がいいでしょうね。ケメヌまでの道については、何か指示がありましたか」
「必要ならばペル・ネフェルの裏の民家を頼れと」
「では、今晩――いえ、今から? ユギ、貴方の使った抜け道は、私たちでも通れるようなものですか」
 そうであれば日中でも密かに王宮を出ることは可能。ユギは道を想い起こし、恐らく、と頷いた。茂みが邪魔をしているが、たかが茂みだ。体格も力もあまり関係無い。
 でしたら、今すぐに。言い掛けたアイシスの言葉は発せられる前に止まった。玄関扉が、外から叩かれている。
「この頃合。最悪の想像しかできませんわ」
 壁に足を掛け天井付近の明かり窓から外を見たユギが、無言で首を振った。
「アメン=ラァですか」
「はい。大神官と、戸の陰になる位置に武装した神官が十数名ほど」
「裏口には? 張られていますか」
 リシドが問うた。いないように見えたとユギが答える。
「それならば皆様は裏口からお逃げ下さい。私が、奴らの気を逸らせて時間を稼ぎます」
「駄目!」
 潜めた声で、勢いよく、マナが言った。
「駄目よ、そんなことしたら、貴方なんかすぐあいつらに殺されちゃうわ」
「ですが」
「駄目。貴方はアイシス様と逃げて。気を引くのは私がやります。私なら、二位とはいえ王座の女だもの。いきなり殺されたりはしない筈よ」
 今度は、ユギがマナを止めようとした。マナのいうことはそうだが、危険には違いない。生命の危機がすぐあるわけでなくとも、敵中に置いていくことにはなるのだ。
「いいから。考えてみて。私が残るのが一番理に適ってるの。そうでしょう?」
 ユギとアンプは、何をおいても逃げ延びなくてはならない。一位の女をアメン=ラァに渡すわけにはいかないのだから、アイシスもだ。シモンとリシドは、捕らえられればすぐに殺されるだろう。
 マナが正しい。理には、それが一番適っている。アイシスが頷いた。なお言い募ろうとするユギやアンプの前に、腕を翳し黙らせる。
「昔は、貴方の口から理なんて単語を聞く日が来るなんて、思ってもなかったわ」
「あら。じゃあ、きっとセト様に影響されたんだわ」
 無事でいて頂戴。言って、アイシスは二人のユギの腕を引き裏口へ回った。シモンとリシドがあとに続く。
 全員が裏口の戸を潜り、扉が閉まったのを確認して、マナは表玄関へ向かった。深呼吸をし、ゆっくりと、玄関扉を開く。大神官が、そこに立っていた。
「おや、これは公妃様。貴方が出迎えとはどうしたことですかな」
「アイシス様もリシドも今手が放せなくて。大神官様こそどうしたんです? こちらに来られるなんて珍しいじゃないですか」
「いや何、王子にお伝えすることが御座いましてな。部屋におられなかったのでこちらかと」
 なんて運がいいの。面には出さず、マナは内心で安堵の息を吐いた。帰ってくるのと、こちらに伝えにくるのが、少しでも遅かったら。ユギは逃げる間も無く自室で討ち取られていただろう。
「王子なら二階ですけど……呼びましょうか? 今アイシス様たちと書架整理の最中だから、呼んでもなかなか降りてこないかもしれませんけど」
「いや、それには及びませんぞ」
 ヘイシーンが屋内へ踏み入ってきた。マナが思わず一歩下がる。戸口から、神官たちが流れ込んできた。
「二階だ! 王子も先王妃も二階にいる!」
「大神官様! どういうことですこれは!」
 マナが怒鳴った。神経質そうな口許を歪め、大神官が笑う。
「今更怒ってみたところで遅い遅い。我々が貴方々の動向に無関心とでも思われたか」
 勝ち誇った態度で、ヘイシーンは胸を反り返らせた。傲慢を絵に描いたようだった。
「大神官様!」
 二階へ上った神官たちが、階段を駆け下りてくる。
「おお、どうだ、無事仕留めたか」
「いえ、それが。二階には誰もおりませぬ。隠れているのかと思い甕の中まで覗いて見ましたが、誰一人」
「何? そんな馬鹿なことが――」
 はっと、ヘイシーンがマナを振り返る。王座の二位の女が勝ち誇った笑みを浮かべた。
「私たちが貴方々の動向に無関心とでも思われましたか」
 先のヘイシーンの言葉を真似てみせる。大神官の額に青筋が浮き立った。
「おのれ、この雌犬が!」
 降りてきた神官が、彼女に向かって剣を構える。あら、とマナは大袈裟な感嘆を発した。
「私を殺していいの? ユギたちとアイシス様はとっくに逃げてしまったのよ。私が死んだら、貴方たち誰を王座の女に立てるつもり?」
「そんなもの、王朝が変わってしまえばどうとでもなる」
 ヘイシーンと神官たちがマナににじり寄る。だが、マナは怯まず、場に不釣合いな明るさでころころと笑ってみせた。
「いいわ、じゃあそうしなさいよ。民がどんな反応をするか見物ね。十六年前みたいな反乱になったりするのかしら? ――ううん、きっとあれより大規模だわ。王座の女殺しは、男狂いよりも、王殺しよりも重いもの。神様だってやったことが無いんだから」
 ぐう、と唸り声を上げ大神官が言葉を詰まらせる。マナは畳み掛けるように言った。
「やりなさいよ、そしたら冥界から見ててあげる。貴方たちが地上で民に追い詰められて死に、冥界の底に落ちて化けものに心臓を食べられ、永遠に彷徨う魂になるのを、見ててあげるわよ!」


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