セネト・パピルス 48
2010/7/31


 ユギたちはペル・ネフェルへと走っていた。追っ手は、まだ見えない。きっとマナが巧く引き止めたのだ。
 先程も通った横道を、走りながら、ユギは唇を噛み締める。もし、あと一日早くアシュの女主と繋ぎが取れていたら。あと一日早く彼女らへの遣いを出せていたら。あと一日早く、自分が、眼を覚ましていたら――。そうすれば、全員で逃げられたのだ。町の皆にも声を掛けて、一緒に行けた。
 横道を出ると、人々が奇異の目で走るユギたちを見る。昼間の通りは人が多い。これでは行き先を隠すことはできないだろう。思った矢先、見ろ、と尖った声が飛んできた。声の方を見る。数人の武装神官がこちらに向かってきていた。
「追っ手が、もう!」
「いや、違う、さっきの奴らじゃない!」
 走り通しのユギたちより、神官たちの足の方が速かった。双方の距離が見る間に縮まっていく。
「ユギ!」
 その時、次の曲がり角のところから、男が飛び出してきた。その勢いのまま、最も間近にいた神官を一人蹴り倒した。
「ジョーノ君。どうしてここに!」
「オレが聞きてぇよ! こいつら、賭け札場にも来やがった」
「な、それじゃあネフトは? 姿が見えないが無事なのか?」
 ユギに剣が一振り投げ渡された。受け取ったそれはずしりと重い。青銅の重さでは、ない。
「無事だ、多分な。やたら強い女が加勢してきて、その場は凌いだんだ。ネフトはそいつと先に逃げた」
 次の神官が迫ってきた。ジョーノが輿の剣を抜く。鈍く光る、緑掛かった金色の刀身が姿を現した。神官たちと同じ、青銅の剣だ。ユギは渡された自分の剣も抜いて見た。白く鋭い光。鉄の輝きだった。
 鉄の剣がどうしてここに? いや、今は考えている場合じゃない。
「相棒、皆を連れて先に行ってくれ」
「おいユギ、馬鹿言ってんじゃねぇ、お前も逃げるんだよ。そりゃ護身用だ」
 青銅の剣を振るっていたジョーノがユギを一瞥して言う。彼は、戦う気だ。
「お前が逃げれなきゃ拙いんだろ」
「だが!」
「オレなら気にすんなよ、兵士目指して身体鍛えてたこともあるんだぜ。兵士ってのは武功さえ立てりゃ馬鹿でも書記並の高給取りだからな。――ほら、行け!」
 神官の攻撃が途切れた一瞬の隙に、ジョーノはユギの背を押した。体勢を崩した彼の手を、アンプが引いて走り出す。
「行かなきゃ。キミが助からなきゃ、どの道ボクたちの負けになっちゃうんだから」


 ペル・ネフェルが見えてきた。ユギはもう自分で走っている。
「あの裏手の、民家でしたね」
 息を切らせながらアイシスが前方を指した。皆の緊張が緩む。無事に着いた――だが、そう思うのは早かった。ペル・ネフェルの裏へ回ろうとしたユギたちの目に、神官と斬り合う白い肌の人々が映った。
「ああ、皆様がお出でになる前に片付けておくのが、長の命でしたのに!」
 白い男の一人がユギたちに気付いて叫ぶ。彼は自分の周りの神官を切り伏せると、ユギたちの方へやってきた。
「こちらへ! そこの桟橋から船へ!」
 桟橋の先に、帆を畳まれた船がある。下流行きの、ケメヌ行きの船だ。導かれるままそちらへ行こうとした彼らの前に、神官たちが回りこんだ。ユギは腰に手をやる。今度こそ、ユギが剣を振るうしかない。
「皆、下がってくれ」
 ユギは鉄剣を握り締めた。落ち着け、と自分に言い聞かせる。落ち着け、大丈夫だ。これは鉄、青銅よりもずっと頑丈な鉄の剣だ。この人数相手に打ち合ったって、途中で折れたりしない。長さだって青銅の剣よりある。路地から出ず、一人ずつを相手にすれば、競り負ける筈が無い。
 一人目の神官が斬りかかってくる。構えていた剣を横にして、ユギはそれを防いだ。すかさず反撃をしたが、神官もそれを受け流す。数度繰り返して、ユギが渾身の力で剣を振り下ろした時、鉄の刃が青銅の剣を擦り抜け神官を切り伏せた。そういう風に、見えた。相手の剣が折れたのだと、一拍遅れてユギは気付いた。
 勝てる!
 ユギが剣を構え直す。神官たちに動揺が走った。
「どうした、掛かってこないのか、臆病者め」
「は、臆病なのはそちらではないか。ずっと路地の中にいるつもりか?」
 挑発だ。乗ってはいけない。だが、神官たちの先に行かねばならないのも事実。ここでじっとしていて、奴らの増援が来たら。それとも逆にこちらの増援が――こちらに、増援の当てはあるのか?
 勝率が低くとも今飛び出すべきか。ユギの心に迷いが現れたが、それは次の瞬間地鳴りのような音に掻き消された。何ごとかと驚くユギの視界で、神官たちが皆一斉に右へ走り出そうとする。そして、間に合わないまま、左端の神官が地面へ押し付けられた。馬の蹄が、彼の背を踏んでいた。
「皆様! ご無事ですか!」
 馬は引き続けて他の神官たちをも踏み潰した。その馬上から、赤と白の斑肌となった女が何か大きな塊を投げ捨てる。塊は、うわっと叫んで、ユギの目の前に尻から着地した。
「ジョーノ君! 良かった、無事で!」
「無事じゃねぇよ! 今のの所為で!」
 邪魔な重石を捨てた馬は、軽やかな足取りで次々と神官たちを踏み倒している。ジョーノの怒りが少し静まった頃、馬と乗り手がユギたちの許へ戻ってきた。
「粗方始末しました。さぁ、皆様、次が来る前に船へ」
 桟橋から船に移ると、帆柱の陰からネフトが出てきた。ユギたちがそちらへ駆け寄る。船にはアシュの男女も乗り込み、最後にネケトネチェルが勇む馬を宥め甲板に上がらせると、直ちにもやいが解かれた。帆が畳まれた船は、流れに沿って北下を始める。
「アシュのものは櫂を。追っ手が来る前にケメヌへ入らねばなりません」
 命じ、ネケトネチェルは改めてユギたちを見た。視線が、行って、戻って、ユギの上で止まる。
「一人足りませんね」
「オレたちを逃がすため、足止めの囮に――」
 そうでしたか。ネケトネチェルが呟く。彼女はユギたちを船室に入るよう促し、自分も、別の部屋へ向かおうとした。
「どこへ? よければ、さっき聞けなかった話を聞いてしまいたいんだが」
「ええ、私も話したいと思います。ですが、少々お待ちを。色粉を落としてきますから。この偽皮膚はなかなかに不快なのです。陛下は、よくもこれを毎日耐えていたものです」
 女が大立ち回りによって色剥げし斑になった腕を指差す。ユギは納得して、引き止めて済まないと謝った。


 四半刻ほどで、ネケトネチェルはユギたちの船室に現れた。肌は、元来の色に戻っている。その輝くような白さに、ユギはセトを思い出した。
「まずは確認ですが。貴方々は、どこまでお察しなのです?」
 初めにネケトネチェルが問うた。あまり多くはと、ユギが正直に答える。
「アケトが機運ということ――セトが、アケトに涸れ谷から戻ってくるつもりなのではということぐらいしか」
「でしたら、それに合わせて我々が何をすべきか、そこからお話しましょう」
 アシュの女主が手にしていたタァウイ全図を広げる。地図上には、幾つかしるしが付けられていた。
「このしるしは?」
「アメン=ラァに掌握されている町です。先程の、神官の強さを、おかしいとは思われませんでしたか?」
 長い距離を走り、疲れも見せず剣を振るう。神殿で座していることの多い神官にしては、言われてみれば不自然だ。
「あの神官たちは、神官とは名ばかりの、アメン=ラァの兵士です。神官として神殿に入り、しかし何を祈るでもなく、隠れて鍛錬を行っていたものたちです。そして、同じことが、今しるしの付いた町では行われている」
 神殿の中、書記学校の中、医術の家の中。戦えるものがいるなど考えもつかないような場所を、女は例としてあげた。
「恐らくアメン=ラァが入れ知恵したのでしょう。いえ、元々それらを組織したのもアメン=ラァなのかもしれません。調べている時間はありませんでしたが」
 あり得る話だなとユギは思った。貧しい神殿や学校を援助してやり、その見返りに、自分たちの手足となり兵の監督をするよう要求する。財にものを言わせるのが得意な、大神殿らしいやり方ではないか。
「それで、これをどうするつもりなのじゃ。敵の地はよく解ったが」
「これらの町は、今頃、姿を現した兵らに制圧されているでしょう。アメン=ラァにはウアセトの外と連絡を取っている気配があった。決行の日取りを教えていたものかと」
 同日に、一斉蜂起。日を開けて個々に行うよりも、周辺の町へ与える影響は格段と大きくなる。特に、蜂起した町と町に挟まれるような地へは、相当な重圧となるだろう。ユギが顔を翳らせる。
「ご安心下さい、殿下。私たちとて無策でこの日を迎えたわけではありません。アシュ、アスティルティト、アナトの戦車隊が、タァウイ王家からの協力要請さえあればいつでも出撃できる用意をしています」
 アシュの女主は、陛下からの、とは言わなかった。
「出撃の用意というのは」
「我々の元の戦車隊に、陛下の私兵であった方たち、合わせて、三千の兵力が三隊。アシュがナイル西岸を、アスティルティトとアナトが東岸を、南へ駆け上がります。一つの町に掛かる時間を勘案して、凡そ一月から二月――それで、ウアセトの付近までゆけるでしょう」
 馬は速い。通常の進軍よりずっと短い時間で戦場を移動できる。
「だが、立て篭もる町が出た場合には? それに、貴方々の軍の強さは知っているが、このように多数の町を順次相手にしていくというのは」
 途中で力尽き、ウアセトまで辿り着けないということも考えられるのではないか。明言は避けられたが、ユギの問いたいことははっきりしている。
「町は、必ず開きます。そして、幾らかに関しては、戦わずに降伏してくるでしょう。町を制圧したといっても、人の出入りを制限し町を閉じきれるほど民衆を掌握しているとは思い難い。兵の数も、隠れて養えていた程度ですから、そう大したものではない筈です」
「となると、アメン=ラァは不利と分かっている戦いを仕掛けてきたことになるが」
「ええ。正確には、分かっているから急いで不利になる前に仕掛けようとしてきた、といったところでしょうか。アメン=ラァにとって、アスティルティトとアナトの存在は予定外だったと思います。アシュの三千だけが町々に分散するのなら抑えられると考えていたに違いない。そしてアシュも他の二族もあくまで異国のもの。陛下が帰還されぬ内に、勝手に、タァウイの内情に介入することは不可能でした」
 過去形だ。不可能な、筈だった。
「アメン=ラァも、それは分かっていたでしょう。だから急いだのです。我々が介入できぬ内にタァウイ全土を抑え、王朝転覆を行うべく。ですが、予想外のことが起きた」
 ネケトネチェルの視線ががユギの足先から頭までを一巡する。そこにいるのが誰か、確かめるような仕種だった。
「我々が手を組むとは、きっと、誰も考えていなかった。――殿下、タァウイ王家の方。我が族の協力を請うて下さいますか」
 皆がユギに注目する。答など、初めから決まっていた。
「願ってもない申し出だ」
 ユギは努めて誠実な声を出そうとした。心臓の声をそのまま舌に乗せる。
「その力を貸して欲しい。我が国は、それを望む」


 数刻後、夜になって、ユギは一人の船室で昼間の会議を振り返った。
 ネケトネチェルは、このあとユギたちをケメヌに降ろし、北へ向かうらしい。そして彼女の指揮で三族の軍が一斉に国境の砂漠や荒野を越え、南へ進み始める。
 同時にユギもケメヌ公の軍を借り諸侯に徴兵の令を発布してウアセトへ征くのであるが、その時期はアケト半ば頃となるだろう。セトが涸れ谷を通りやってくる頃と、巧く重なる。涸れ谷からのセトが紅海への、ケメヌからのユギが本流への、退路を断ち追い詰めるのだ。
 上々。上々の計画に思える。だが、この時、ユギには一つ知らされていないことがあった。アシュの女主の、セトの、最後の企てを、ユギは知らなかった。


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