セネト・パピルス 49
2010/8/7


    真に正しき二国の継ぎ手、ウシル=アテムの息子、王権の神ホルの歓喜たる我が言葉を聞け。
    アメン=ラァ大神殿は今や耄碌し、王家の神を奉るに相応しくないものへと成り下がった。
    実にや、何故我が家は騙されたのであろうか?
    大神殿を強くしたのは我が家であるのに。民を養うに同じく養ったのは我が家であるのに。
    恩義忘れたるは蛮人の行いなり。しからば蛮人を討つようにこれを討たん。
    諸家はその家の規模に応じて正しきマアトを行え。
    蛮人と、それにくみするものが、彼ら自身のことに注意し恐れるように。
    死して冥界の王となりし我が父の国が、彼ら自身の往き先が、いかなる国であるかを知らせよ。

 既に落ちた町を除く、主たる町の全てに、その令が広められた。チェヘヌウ砂漠へ向かう道すがらのネケトネチェルや、それを受け取った諸侯らの許から新たに出発した使者が、布告書を撒き散らす。
 シモンの校正を受けながらユギが何十枚と書いたそれは、ケメヌから半月ほどでタァウイ中へ行き渡った。北の町々が我先にと立ち上がる。かつてアメン=ラァによりケタの脅威を長引かされてきた彼らは、この日を待ちかねていた。
「ペルバスト、ジャネト、ハトウアレト、ペルアトム。この四つの町からは既に船団が向かってきているらしい。先程先発の使者が到着した」
 ケメヌの軍議所で、ユギが一同に告げる。
「増水が始まりナイルの流れが急になりつつあるから、すぐに到着とはいかないだろうが。我々もそろそろナイルに船を浮かべるべき頃合ではないだろうか」
 シモンが深く頷き、他のものもそれに倣った。軍の編成は、と問う声が上がる。
「船ごとに隊を設けるつもりだ。公、構わないか?」
 ユギの軍は、大部分をケメヌ公の私兵に頼ることになる。無論、農閑期という時期柄、民からも兵を募るのだが、主力はやはり常設軍で鍛えられた兵士たちだ。
「ケメヌはいかようにでも。各隊の指揮はどうなさる?」
「ケメヌの軍に関しては、常の将軍や隊長格から、好きに命じてくれていい。公募の軍についてだが……」
 ユギがアンプとジョーノを見る。
「二艘に分け、それぞれを、相棒とジョーノ君に任せたい」
「え」
「オレかぁっ?」
 指名された二人が頓狂な声を出した。二人とも、兵を指揮した経験は無い。
「相棒は、今後のことを考えれば、指揮しておくべきだと思う。アメン=ラァとともにいたオレたちが、アメン=ラァを完全に見限ったと、皆に示さねばならない」
「然り然り。王子も漸く人心というものを理解なさったようじゃ。しかし、集まった兵を二艘に分けるとなると、一艘の乗員は随分と多くなる。指揮官の経験が無いものにそれは、少しばかり荷が重いのでは」
 シモンが忠告する。三艘になさい、と、それまでの沈黙を破りアイシスが言った。
「三艘になさい。そして、その内の一艘をわたくしに」
「母上に? それは、構わない、と、思いますが」
 陣頭に立つのでなければ、剣を振るえぬ女の身であっても、そう危険ではない。ただ、何故母がそのようなことを言い出したのかとユギは訝った。
「二のユギと同じ理由です。王座を請け負うものの意思を人々に示すには、いくさ場においてアメン=ラァと敵対するのが最も効果的です」
 アイシスは本心の半分を話した。恐らく、この戦いには、演劇的な要素が必要となる。セト側の振る舞いに的確な動きを返すこと。それは、自分でなくてはできない。アイシスの本心の、残りの半分は、こうである。
「解りました。では、三艘に分け、一艘を母上に」
「あ、おい、待てよ。オレは」
「キミ? キミは、兵士を目指していたと言ったじゃないか。武功を立てれば高給取りだとも。是非とも武功を立てて、全てが落ち着いたあと、オレがキミを取り立てても不自然でないようになってくれ」
 口調を軽くして、町で友人と話していた時のようにユギが言った。あー、だとか、うー、だとか、暫く意味の無い声を発したあと、ジョーノが頷く。
「では、次は船の配置と陸戦時の手筈じゃな。戦況しだいでは、アメン=ラァが大神殿に立て篭もる確率も高いかと」
「神官たちが王家の敵になったとしても、神そのものを祭る場である神殿に手出しするのは躊躇うものが多い。かもしれない、からか」
「さよう。先のメンネフェル水上戦を見ればそれは明らかなこと。ここをどうするかは――話し合う前に、ケメヌの指揮官たちも呼んだ方がよいな」
 ヘジュウルが戸口に行って、控えていた取次ぎの武官に上のものたちを連れてくるよう命じた。武官が廊下を駆け出す。待つ間、会話が途切れた。


 一方、ケメヌの軍議の数日前。『雨』降りしきるプントの地でも、同じ事柄について話し合うものたちがいた。セトとプント王、黒蛇たち。彼らはセトのウアセト帰還の日を定めていた。
「こちらの『雨季』も三分の二が終わった。我が国の上に降った『雨』の、初めの一滴はもうタァウイに辿り着いている頃ではないかと思う」
 ナイルはアブゥの瀑流神殿を源として湧き出ている。それはタァウイ人の信仰だが、現実がそうでないことは、学のあるものであれば皆知っている。ナイルは、遡れば二本の流れからなり、そこに降り注いだ『雨』が遥か北へ下ってタァウイを満たすのだ。
 二本の流れはいずれもプントの領内を通る。プントに降った『雨』の量、降り始めの日、それらを計算すればタァウイにおける増水の様子を知ることは容易であった。
「今から紅海を行き、そうだな、涸れ谷に水が入り航行可能となる頃に辿り着けるだろう」
「船団の準備を?」
 プント王が問う。既にセトに仕える黒蛇たち、それから新たに貸与されるプント王の軍隊。護るべき拠点を持たぬアシュらと異なりプントから全軍を出すことはできないが、ウアセトを攻めるには充分な兵力だ。
「準備を、頼めるか、プント王。時が来た」


 そして、戦いが始まった。プントよりセトの軍が紅海に出、ケメヌよりユギの軍がナイルへ浮かんだ。アシュ、アスティルティト、アナトの三族も国境を越えて南へと戦車を転がす。
 ウアセトでは、大神殿が混乱を極めていた。
「ええい、何度も言わずとも聞こえておるわ!」
 アシュの戦車隊が一つ目の町を取った。その報せが、大神官の許に届けられた。報告者は慌てふためき、何度も同じことを繰り返す。ヘイシーンでなくとも怒るのは道理であった。
「あの忌々しい白い女め! 心臓の止まった馬鹿王子め! 手を組みおった。あの女は王子を嫌悪していたのではないのか。王子も父の仇とセトを憎んでいたではないか。何故繋がりが成立する!」
 王宮の、王の間の、王座の肘掛を、ヘイシーンが拳で叩いた。金が鈍い音を立てる。
「そも王子の転身自体が」
 側に控えていた補佐官のマアティスが言う。大神官がもう一度肘掛に拳を叩き付けた。
「ケメヌだ、ケメヌでの一連が奴らの思惑だったのだ。思い返せば先王妃と大宰相がやってきた時点でおかしかった。ケメヌの狒々親父が、州公の分際で! 宦官風情が、さも敗北者のように見せ掛けて、あれも共謀だ!」
 ヘイシーンが玉座を降りる。彼はマアティスに向かって叫んだ。
「軍議だ。神殿の兵らを集めろ! 町からも信者どもを徴収して、王宮域と神殿域の防備に当てるのだ!」


 アケト第三月第一週第十日。真っ先にウアセトへ辿り着いたのはユギ軍であった。真後ろにペルバスト、ペルアトム二侯の船団を、その後ろにもおびただしき軍船を従え、ユギがやってきた。敵方に水上戦の用意が無いのを見て取ると、船は順に錨を下ろし、兵を陸に上げる。その様子が、王宮から見えた。
「小童が!」
 一つ悪態を吐き、ヘイシーンが歩き出した。どこへ、と、急いてマアティスが彼を追う。
「公妃館だ。この期に及んで一位だの二位だのに拘ってはいられぬ。即位さえしてしまえば、王に逆らう度胸など一州の侯ごときには無いわ」
 王の間を出、庭へ向かう。遠くから、風に乗って微かに、鬨の声が聞こえていた。苛立ちもあらわに、乱暴な動作で公妃館の戸を開く。一階にマナの姿は見当たらなかった。彼は階段を駆け上がった。
「あら。大神官様。そんなに急いでどうかしたんですか? ナイルより聞こえるこの音とは何か関係が?」
 窓辺に、王座の二位の女は立っていた。ヘイシーンが大股に近付いて彼女の腕を捕らえる。
「あまり生意気なことを言っていると優しくできぬぞ。二位の女。王座の女。即位の準備だ」
 ヘイシーンの空いた片手がマナの服の裾をたくし上げる。即位するには王座の女との婚姻が不可欠、それ故に、男はここへ来たのだ。
「やめなさいよ! 無礼者!」
 ヘイシーンの言わんとするところを悟り、出せる限りの力でマナが拘束に抗う。
 なんとしても逃げなければ。絶対に、即位などさせては駄目。
 思えど腕を振り解くことはできず、自由になる足をばたつかせてみても、狼藉を止めさせるには足りなかった。何かないかとマナが辺りを見回す。手の届く範囲に、何か、武器になるものは。視界の端に手鏡が映った。そっと手を伸ばす。だが指先がその柄を捉えることはできなかった。
「惜しかったな、もう少しだったものを」
 ヘイシーンの手が先にそれを掴んでいた。彼はそれを投げ捨て、再びマナに向き直った。もうどうしようもない。マナが諦め掛けた時、窓から何かが室内へ飛び込んできた。
「な、このっ!」
 ばさりと、羽を広げた鳩が二人の間に割って入った。嘴が大神官を突付く。鳩を振り払おうとしたヘイシーンの手が、掴んでいたマナの腕を放した。
「待て! く、この、離れろ!」
 ヘイシーンの声を背に、マナは階段を駆け下り、庭へ出た。幼い日の記憶を頼りに、彼女は王宮の茂みに飛び込んだ。
 どこ。どこだった? 抜け道はどこだった? 昔、まだ私が公妃じゃなかった頃。まだ王宮が今の王宮じゃなかった頃。まだ師と仰ぐ人が生きていた頃。王宮勤めだったその人に会うために、私が外から使っていた抜け道はどこだった?
 必死で探すマナの上に影ができた。鳩が、見上げた彼女の頭上を通り越して、茂みの奥へ消える。羽ばたく音が遠くなった。鳩は茂みを突き抜けていた。
 あそこだわ! 草木を掻き分けて鳩を追う。念入りに組まれた樹木の柵が、一箇所、開いていた。


 抜け道の終わりは町の広場に通じている。王宮前広場だ。ずらりとユギ軍の兵が立ち並び、アメン=ラァを威嚇しているそこへ、マナは抜け出た。
「ユギ! 一のユギ!」
「叔母様!」
 中央で檄を飛ばしていたユギに、マナは駆け寄った。ユギが、そして周りの兵もが、目を見開く。
「叔母様。よくぞご無事で――しかし、いったいどこから外へ? 今、王宮域と神殿域は蟻の子一匹通さぬ防備だというのに」
「抜け道が、抜け道があるの。ずっと昔に私が使ってた抜け道よ。場所を忘れてて、だけど鳩が」
「鳩?」
 ユギの疑問に答えるようにして一羽の鳩が飛びきたる。鳩はマナの肩に降り、くるりと鳴いた。
「こいつ、足に何か」
 ユギが手を伸ばしても鳩は大人しくその場に留まっていた。足に付けられていたものはメフウ紙の切れ端である。伝書鳩だった。
「アスティルティトとアナトにやった鳩か!」
 メフウ紙には、小さな文字で町の名前と陥落の文字が書かれていた。ウアセトのすぐ近くの町の名だ。アスティルティトとアナト、東岸を請け負った姉妹が、程なくウアセトへやってくるという報せに他ならなかった。
「皆、聞け! アスティルティトとアナトの両族が、東岸最後の町を落とした! じきに戦車隊がここへやってくるぞ!」
 低い、地鳴りのような歓声が大気を震わせた。思わず耳を塞ぎ掛けたマナにの耳許に、ユギが唇を寄せる。
「それで、叔母様、抜け道というのは? 武器を持った男でも通れるような広さですか」
「あ、ええ。そこの横道から入るの。道なりに進むと王宮の裏手の茂みに出るわ。道から真っ直ぐ前方に茂みを潜っていくと、一箇所だけ、木がおかしな生え方をして柵を壊しているところがあって、そこを抜けると王宮の庭に出るのよ」
 マナの指差す先に、細い路地がある。ユギは近くの数人に声を掛けそこへ向かわせた。右辺中央のアンプの許へ行き、全軍の指揮を預けると、呼び止める声を無視して自分も路地へ入る。
 戦車隊の到着前に、王宮域へ突入しておきたい。異国の彼女らには神殿をこそ任せたいのだ。タァウイ人は神に仇なすことを恐れる。神殿に攻め入らせるのは難しい。
 事情を聞いていた兵たちがユギのあとに続く。茂みを潜ると、先に行った兵らもそこで待っていた。
「様子はどうだ」
「庭側の守備は手薄に見えます。抜け道のことを知らず、こちらから来るわけが無いと油断しているものかと。ただ、神官が数人辺りをうろついています。物陰を覗き込んだり、王妃様を探しているようです」
「そうか。神官が数人程度なら支障は無いな」
 ユギは腰の剣を確かめた。ケメヌへの脱出の際にも使った鉄の剣。あとから、かつて父がケタより奪った戦利品だったのだと知った。プントへ亡命するセトがアシュの女に、もし時が来たれば自分に渡すよう言い置いて行った剣だと知った。自らは一度も振るわず、後生大事に、自分に渡すために。初めから、セトは自分に王位を渡すつもりだったのだと、その剣が物語っていた。
「行くぞ皆! 敵はアメン=ラァの神官ども! タァウイの歪みの全ての源を、必ずや討ち取れ!」
 兵らが走り出した。気勢を上げて王宮へ乗り込む。異常に気付いた神官たちが統率を乱し、彼らが王宮の中の防衛に気を取られた隙に、アンプの指揮する隊が表門を打ち破って王宮域に雪崩れ込んだ。持ち場を捨てて逃げ出そうとしたものの内、町へ出ようとしたものたちの行く手は、ジョーノの隊が阻んだ。
「殿下! 幾らかが神殿域に逃げ込みました」
「手空きの隊で周りを囲め。逃がすな。戦車隊の到着まで包囲を続けろ」
 命じ、ユギは戦いの最中に戻った。向かってくる兵を切り伏せ、逃げ隠れる神官を捕らえながら、馬の嘶きと、車輪の転がる音が、聞こえるのを待った。


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