セネト・パピルス 50
2010/8/14


 涸れ谷とナイルの境の緩やかな流れの上に、黒い木材で組まれた船が、幾艘も並んで浮かんでいる。
「行かなくてよろしいのですか」
 その内一艘の甲板に、墨に覆われた目を細めウアセトを眺める姿があった。その冴えた薄青の瞳には、土煙を巻き起こす町の様子が映っている。
「行かなくてよいのではない。まだ、行ってはならぬ」
 土煙は町の西側で主に上がっているようだった。王宮域と神殿域は、王宮域が西に神殿域が東にある。西で、というのは、いまだ神殿域は手付かずだということだ。
「神殿に入るのが遅過ぎる。今から攻め込んでも、もう捨て駒の兵くらいしか中には残っていまい」
「捨て駒の――しかし、包囲はされている模様で」
「第一隊長」
 セトが男の言葉を遮った。
「大神殿には隠し通路がある。王宮にあったような、外へ逃げるための通路が。凡そ神殿らしからぬ複雑な回廊の一つに、その道が隠されている」
 神殿神官としてヘイシーンの副官を務めたことのあるセトだから知っていることだ。ユギたちの中に、通路の存在を知るものはいないだろう。
「通路はウアセトの北に延び、そこで水を引き込んで隠し港を作っている。ここからはすぐ南だな。我々はここで待つのだ。追ってくるであろうユギたちの船団とでアメン=ラァを挟み、そのあとは」
 谷間に、風が吹き込んできた。セトが目を瞑る。第一隊長が彼を風から護るように身体の位置を変えた。
「そのあとは、お前たちは下がれ。皆、プント王の船に移り、その忠節をプントへ返せ」
「両陛下の仰せとあらば。それが両国のためとあらば」
 男は顔に苦渋を滲ませ言った。腕を天に差し掲げる彼の背後で、激しい音を立て水飛沫がナイルに柱を立てる。
「来たか」
 男が背後を振り返る。その肩越しにセトは連続して上がる飛沫の発生源を見た。
 戦車と人を甲板に乗せ、後ろに馬を繋ぎ泳がせる船が、涸れ谷の真横を南上している。船上の人々が皆こちらの船を拝礼していた。対岸にも戦車が走っている。先頭の一台が、過ぎ去る時、片腕で手綱を引いて馬と車台の向きを変え、もう片腕を前に翳して礼の形を取った。セトが腕を上げて答える。互いに遠く、顔も、身体付きさえも見えてはいなかった。だが判る。一瞬の、邂逅だった。


 ウアセトに到着した戦車は、直ちに神殿域の前に配備された。門壁を打ち破り壁を崩すための角材が馬の横に取り付けられる。
「神殿の中は我々が。タァウイの方々は外へ逃げた分を」
 前列の戦車にネブトアンクとセトアントが乗り込んだ。彼女たちの合図とともに一列目全ての戦車が走り出す。馬は怯えることなく壁に立ち向かった。
 轟音が鳴り響く。木製の門扉が破れた。
「前列散開! 二列目!」
 門の周りの、弱いところから、壁が崩れる。突入、とどちらかの女が叫んだ。大神殿の前に構えていた敵兵を戦車が蹴散らす。戦車を降りていた兵らが神殿の中へ入った。
「もう一人のボク!」
 その様子を半ば唖然として見ていたユギに、アンプが駆け寄る。
「王宮域の方、大分探したけど、ヘイシーンも側近のマアティスも見付からなかった。神殿に逃げた中にいたか、最初から神殿にいたか、どっちかだと思う」
「そうか。こっちは見ての通りだ。大神殿制圧も時間の問題だろう」
 だが。
「タァウイ殿下に申し上げます!」
 ユギの言う通り、制圧はすぐだった。白い、男が、それを告げる。
「しかし、内にいた神官の数があまりに少なく、我らが長は怪しんでおられます」
「大神官や側近らは? それも見付からずか?」
「はい。継続して探しておりますが、回廊が複雑で思うようにはいかず――」
 最初に、ユギは隠し部屋の存在を疑った。次に、隠し通路の可能性を思い付いた。もし大神殿にも王宮のような脱出用通路があるとしたら。もしくは王宮のそれを使ったとしたら。
「相棒。王宮の方だが、隠し通路を使った形跡はあったか?」
「え? 王宮? ううん、どの通路にもそんな形跡は」
 となると、やはり大神殿から。隠し部屋か隠し通路。隠し通路だとしたらどこへ出る?
「見張りを立ててくれ。北、南、西、東、全ての方角を見渡すように。オレは大神殿を見てくる」
 大神殿へ乗り込むことに、もはやユギはなんの躊躇いも無かった。白い女たちのように、或いはセトのように、地上の神の威光を信じぬとまでは言わない。ただ、人の、国家の行き先を、決めるのは人自身だと知ったのだ。
 神が道を示すのではない。自ら道をゆけば、そこに神の意思というものが付いてくる。己の執行することが正義真理に背かぬ限り、神を恐れる必要など無い!
 大神殿の回廊は複雑だった。闇雲に探すのではいけない、こういうものには必ず何か法則がある筈だ。ユギは注意深く壁や天井、床を観察した。何も法則が無ければ使う側とて迷いかねない。必ず、何かある筈だ。
「溝……?」
「それは回廊を抜け高位神官らの待機所へ出るためのものでした」
 後ろから付いてきていた男が言った。壁の溝は違う。
「ではこれは?」
 ユギが石の壁に刻まれた祈祷文の一箇所を指す。文中の一文字、アの音を表す禿鷲が、右を向いていた。タァウイの言葉は右からでも左からでも書き出せるが、全ての文字は必ず書き出しの方を向いて刻む決まりになっている。その祈祷文は左から書き出されていた。禿鷲だけが、他の文字とは逆を向いている。
「文字の向きが。いえ、殿下、それには気付いておりませんでした」
 ユギは壁を見ながら回廊の角を幾つか折れた。向きの違う文字が書かれてるのは全て曲がり角だった。曲がり角で左右の壁を見、逆を向いた禿鷲がいる側の道を進んで行く。暫く行くと、偽扉の前へ出た。
「突き当たりか?」
 偽扉は、実際には開かぬ、魂や霊体といったものが通るための扉である。神殿や墓には通常設けられているもので、これもその類に見えた。一見すると両開きの扉のようだが、よく見れば左右の戸は一枚板で出来ている。
「戻りますか?」
「いや」
 何か、気になる。その感覚は、例えば札遊びの最中に相手の伏せ札をうっすら察した時のような、そんなざわめいた気持ちに近かった。それは完全に勘だった。ユギは扉に近付き、中央の二つの持ち手を掴んだ。持ち手がぐらついた気がした。引くと、がちりと鈍い音が響いた。
「今の音、仕掛けが――?」
「何か外れたな。そしてこの裏は空洞だ。でなければああも音が反響する筈が無い」
 扉を押し、引き、少し考えて、ユギは横に力を加えてみた。扉は思ったよりも軽く、滑るようにして動いた。
「地下通路か。オレは一旦戻って皆にこれを報告する。神殿内を捜索しているものたちで先に追ってくれ」
「承知いたしました」
 男が駆けていく。ユギも走って神殿の外へ出た。アンプのところへ行き、見張りは何か言っていないかと問う。
「まだ何も。大神殿の方は?」
「隠し通路があった。どこへ繋がってるかは分からないが、今調べさせている。アスティルティトとアナトの族長は?」
「逃げようとした神官を追って裏手に」
 行ってみると、彼女らはちょうど捕虜を縄に掛けているところだった。
「どういたしましたか、殿下」
「大神殿に隠し通路があった。多分、町の外へ繋がっているだろう。随分な人数が逃げた筈だ。どこから出てくるものか見張りを立たせているが、まだ何も見えていないと言う」
「町のすぐそこではなく離れた場所まで伸びている通路、ということですね」
 女の一人が手を打った。周囲の兵の注目が集まる。
「戦車隊は今すぐ町の回りに馬を並べなさい! 大神殿に隠し通路が見付かりました。どこへ逃げたか分かりしだい追えるように、皆準備を!」
 兵らが慌しく捕虜を引っ立て自分の戦車を動かした。二人の女も車台に手を掛ける。
「水際に出た場合を考えて、殿下は船の用意を」
「ああ。ここはいずれかの侯に任せてオレも出る」
 広場へ戻ると、男がユギを待っていた。彼は大神殿の地下通路が途中で崩れていたことをユギに報せた。
「通ったあとで追っ手を塞ぐため崩したものと思われます。途中までで判断すると、出口は北の方角というのが最もあり得る状況です」
「分かった。相棒、北の見張りを増やしてくれ。それから、公! ケメヌ公!」
 兵士を掻き分けヘジュウル・ケメヌが走ってきた。
「大神殿に隠し通路があった。高位神官は皆もう逃げたものと思われる。他のものにも周知してくれ。ここは幾部隊か残して、あとは各々船の準備をするようにと。陸はシュメールの姉妹が抑える。こちらはナイルに船を浮かべ、やつらの退路を断つんだ」


 半刻。その船団は、突如何も無いところから出現したように見えた。ウアセトの北、ナイルが曲がり視界の悪くなっている位置に、数艘の軍船が浮かぶ。
「下流か。全艘、帆を畳め! もやいを解いてあれを追え!」
 ユギの命を各艦の指揮官が繰り返した。応える声が水上にこだまする。
 アメン=ラァの船は、戦う気が無いのか、錨を下ろさずそのままナイルを北下し始めた。少し行けば涸れ谷、そこから紅海へ出れば、タァウイの敵国ケタでもその属領でも、頼るところは幾らでもあるのだ。
 しかしアメン=ラァの思惑が巧くいったのはそこまでだった。彼らの船の前方へ、すっと、黒い船が列成して現れ、錨を下ろす。涸れ谷で待ち受けていたセトの船だった。
 おおっ、と歓声が湧き起こった。ユギ軍の兵士たちだ。アメン=ラァは慌てて対岸へ船を付けようとし、それができぬことを悟った。西岸には、弓引く戦車隊が、アシュの兵らが、既に陣を構えていた。東岸ではアスティルティトとアナトの隊が戦車を転がしアメン=ラァの許へ向かっている。
 四方を塞がれたアメン=ラァの船団は渋々その場に錨を下ろした。投石器を準備している様子が窺える。
「この辺りでこちらも錨を下ろすぞ。これ以上近付いても的になるだけだ」
 錨が下ろされるとユギは船首に立った。
「聞け! 蛮族に成り下がりしものどもよ! その神を利用し、王国に危機を招いた、我が父の真の仇! お前たちの命運もここで終わりだ!」
 同意の声が四方からアメン=ラァを取り囲む。静まるのを待って、ユギは空に賛美の腕を翳した。
「これよりなされるは正義真理の執行である! 見そなわせ! この国の行き着く先を、我が成すことを、マアトよ見そなわせ!」
 導くのではなく、ただ、見よと。
 ユギ軍の覇気がこの上なく高まる。アメン=ラァの側からは、誰も宣誓に出てこなかった。なんの予告も無く投石器が使われた。
「恩義を忘れ、しきたりすらも忘れたか!」
 ユギの軍からも石が発射される。アメン=ラァ船団の幾艘かが後ろへ引いて避けようとしたが、下がった船はセトの船から放たれた火矢に船体を焼かれた。
「もう一度投石器だ! 後列の出火で逃げ場も無い、今度は当たるぞ!」
 ユギが指示を出す。即座に反応した一艘の石が、中央の船に大穴を開けた。穴に慌てふためく敵兵の中の、見知った顔にユギが気付く。ヘイシーンの側近の、なんと言ったか――側近がいるなら、ヘイシーン自身が乗っていたのもあの船だろう。
「今の石を投げたのは誰だ!」
 ユギの斜め後方の船で声が上がった。
「ナレトペヘテト州第三艦クヌムヘテプ! シェメヌ侯の砲手に御座います!」
「よくやった! 皆、聞け! 今のは大神官の船だ。河に落ちたもの、飛び込み逃げようとするもの、一人たりとも逃がすな! 必ず仕留めろ!」


 勝敗は、あまりにもあっさりと決まった。アメン=ラァは残りの船もすぐに失い、乗員は皆ナイルに沈むか、そうでなければなんとか岸まで泳ぎ着いたところを白い女たちの弓矢に掛けられた。大神官とその側近は、ともに心臓を貫かれナイルを漂っていったのを確認されている。
 勝利。ユギたちの気が緩む。気の早いものが持ち場を離れ仲間と騒ぎ出した。ユギもその輪に混ざろうとする。
 だが、その時、船の真横に大きな石が落ちた。船が揺れる。まだ敵船が残っていたか? 石の飛んできた方角を見て、ユギは目を見開いた。
 プント船が一艘――いや、それはもはやプント船ではなかった。いつの間に、何が起きていたのか、タァウイの人間だけを乗せるようになっていた船が、アメン=ラァ船団の残骸の中を進んできていた。見れば、黒い男たちはナイルに落ち、後方の船から垂らされた縄に掴まり、引き上げられている。
「なんだあれは。何故向かってくる。何故プント人を排除している」
 船を指揮していたのはセトだった。彼が手を上げると再び投石器が動いた。
「で、殿下! これは、どうして!」
 ユギ軍が混乱に陥った。さっきまでともに敵を追い詰めていたものが。セトが、企ての初めより最後は王子に王位をと望んでいたセト・ヌブティが!
 動いたのは公募軍の第一艦だった。アイシスを乗せた船が、さっと前に出て、セトの船に近付いた。
 そこからは軍事演習の手本を見るようだった、と、ユギは思う。互いの投石器の死角に入り込んだ二艘は、兵を乗り移らせ合い、指揮官の取り合いを始めた。手勢の多かったアイシスの隊が優位となる。一人がとうとうセトを捕らえると、少しの間のあとセトの兵らもその場に膝を折った。


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