セネト・パピルス 51
2010/8/21


「処刑の手筈は決まったか?」
「……明日の朝に、広場で」
 急場の裏切りは、やはり許されるものではなかった。諸侯らの半数ほどは怒り、残りの半数は王位を譲らねばならぬという立場に同情的ではあったが積極的にセトを庇うでもなく、明日の処刑は確定事項となってしまった。ユギは、それを伝えに来たのだった。
「どうしてあんなことをしたんだ」
 セトには、旧ヌブト公館が仮居として宛がわれた。出入り口には兵が立ち彼が逃げ出さないものか見張っているが、館の中においては、その後プントの非戦闘船――アソ号から降ろされた元の侍女たちを使うことを許されている。こうしてユギが訪れていると、まるで、以前に戻ったかのようだった。
「王座が惜しくなった」
「違う。違うだろう、お前は、そうじゃないだろう」
 正当な理由がある筈だと、ユギは詰め寄った。無いわけではない。誰もが認める方法で、悪として、彼は舞台を降りねばならなかった。彼を排除するユギに民が反感を抱かぬような形で、彼は消えなくてはならない。それ故だった。
「私は、もはやこの国には必要の無いものだ」
 セトが目を細める。アケトの庭で、緑が風に揺れていた。
「生きて、あと少しばかりタァウイの行く先を地上から見たかった気もするが――」
「だったらそうすればいい。処刑などしない。オレたちは和解する」
「お前は」
 そこで、セトは天青石の瞳を閉じた。言葉が途切れる。瞼の裏、彼はここへ至る日々を想い起こしていた。
 戦いの日々をではない。赤き肌の神官としていた日のこと、嵐のように過ぎたウアセトでの日々、嵐の中にあって凪のようであった日々のこと。決起の日、遷都の日、そして今。
 想い、出していた。柘榴の下の談話、アシュの娘、時に見える龍のごとき雲や三羽の鳩。ヌブト、ベヘデト、ケメヌ、それぞれの、三様の王座。その下に生まれた王子たち。アメン=ヘテプ。そしてアンジェティ。それら全てを、彼は胸の内に去来させた。
「若い、な」
 セトの発した声が揺れていないのを、ユギは不思議に思った。開かれた青睡蓮の瞳が増水に濡れていないのをおかしく思う。沈黙の内にセトが何を考えていたのか、彼は正確にではなくとも感じ取っていた。
「お前は、若い。そして、王として知らねばならぬことをまだ知らない」
 反論しようとしたユギより早く、セトは言葉を継いだ。
「度重なる状況の入れ替わり。奪い合われる王座。マアトに適わぬこの身。私を生かしておけば民には不安が残る。次が、あるのではないかとな」
「だが!」
 ユギの前に、セトは制止の手を翳した。
「王の務めを果たせ、これから、上下二国を背負ってゆく覚悟があるのなら。国の、多数の民の安泰と、その犠牲になるもの。どちらを、どのように選ぶべきか。知らぬままではならない。知って、正しき道を選び続けよ。王として生きる、その限り」
 ユギは俯いて僅かに首を動かした。頷いたとも、そうでないとも取れる動きだった。その様子をセトが小さく笑う。それは、駄々をこねる子供を宥める時の、かつて彼がよくした笑みと同じだった。
「王になれ。王になれ、良き王に。お前の父が持たなかったもの、そして私が持たなかったもの、その両方を兼ね備えるユギ・ベヘデティ。ホル=エム・ヘブ、王権の神ホルに歓喜でもって迎えられるもの」
 セトが再び目を伏せる。
「今私に掛けようとした優しさを忘れることなく、己のマアトを汚すことなく。二つの地平の、王になれ」


 ヌブト公館を出、王宮へ向かうユギの背を、赤い肌の女が見詰めていた。良かったのだろうか? 今や我が主には何か報いが与えられるべきではないのか? 考えながら、女は見詰めていた。王宮の門が開き、閉じる。彼女は、走り出した。
 王宮では、人々がもう戴冠式の準備を始めようとしていた。月日経て取り戻された正しき王位の流れに、タァウイ人は皆気分を高揚させている。セトのこともあり、何もかもが目出度く終わりということではない。だが、一先ず国家に関しては良く落着したのだ。それを早く民にも知らせようと、人々は浮き立っていた。
「殿下! ユギ・ベヘデティ様!」
 そこへ、くすんだ赤い肌の女が転がり込んだ。見たことのある女だ。足元に跪いた女を見、ユギが思う。
「上下二国の統治者となられるお方へ、恐れながら申し上げます。どうか、今暫く、上下両冠の所有を我が主に預け置き下さいませ。国家のために生き、西へ渡る我が主を、王であるままこの地上から去らせていただけますよう」
 女はセトの侍女であった。本来ならば王となるものに直接意見を述べるなどできぬ、一介の、今や罪人とされるものの侍女であった。呼び掛けようとして名前を知らぬことに気付き、ユギが少し口篭る。
「――ああ、その、顔を上げよ。セトを王であるままと言ったか」
「はい」
 女が即答し、胸乳の前に腕を交差させる。賛美ではない、礼の形だった。
「どうかお慈悲で持って我が主をイアル野へお送り下さい。我が主のマアトをお護り下さい」
 マアトを。その意味するところを、ユギはもう解っている。セトは、理由はどうあれ、あまりに多くのマアトに反した。その心臓は死後の裁きでアメミットの餌となり、その魂はドゥアトの底の暗い世界をさ迷うのだろう。身体は朽ち、二度と蘇ることは無い。
 だが、王は、神の化身たる王であれば、神々の一切の模倣を許されるのだ。詐称、同性姦、王殺し、反逆――奇しくも、全てセトと同じ名の神が行っている。
 王のままで。その罪が罪とならぬように。ユギの周囲がざわめき出した。セトのために戴冠を遅らせるべきか否か。
「かつて」
 慎重に、ユギは口を開いた。
「かつてセトが我が父を亡きものとした時、父はまだ王であった。意図してのことかは解らない。だが、セトが、積極的に父を冥界の底へ落とさなかったのは確かなのだ。セトのマアトを第一に汚したのは、アテム・アメン=ヘテプその人であったというのに」
 事情を知るものたちが皆唇を引き結ぶ。ユギは彼らを見回し、そして告げた。
「今それと同じ慈悲が繰り返されたとして、何や不都合があらん。戴冠はセトの処刑後、七十日を待ってとする」


 そのことは、セトにもすぐ伝えられた。伝えたのは侍女自身である。セトはそれに驚き、大いに喜んだ。夜が来て、そして朝が来ても、もはや彼に憂いは無かった。
「どうしてそのように落ち着いていらっしゃるのでしょう。この朝が参りましたというのに」
 最後の身支度を手伝いながら、侍女は問うた。地上を去らねばならぬというのは、いかに楽園を信じようとも、通常人には苦痛である。
「私は、思うようにしてきた」
 セトが言い切る。
「我が見目は忌み嫌われるものでなくなり、我がヌブトはその地位を取り戻し、懸念であったアメン=ラァのことにも区切りが付き。この国が正しき姿に立ち返るのを見ることができた。タァウイと、二国と呼ばれながら一つであるその姿。それを見た今、私に悔いは無いのだ」
 歌うような調子で、彼は言葉を続けた。
「さぁ、残りの支度を手伝ってくれ。美しく身を飾って往かなければ。いかにも敗戦の将のようななりをして往くのでは、あまりだろうから」


 王宮前の広場には大勢の民衆が詰め掛けていた。民の陰には諸侯らもいる。更にその陰には、三人の白い女やプント王、黒蛇たちも紛れていた。他国の人間という立場上、彼女らはこの処刑に賛同も批判も述べていない。こうして見送るのも実際には控えた方が良かったのだろうが、心情を理解されたものか、誰も厳格に咎めはしなかった。
 セトは、逃げぬよう見張る兵を両横に従えて、自らの足で広場までやってきた。歩調は淀みない。王の誇りを失わず、彼は官吏の手を煩わせることも無く処刑台の上へ仰向けになった。
 刑の種類は斬首である。だが官吏は剣も斧も携えていない。不信に思ったセトが問いただすか否か迷っていると、官吏と兵が左右に分かれ、その間を通りユギが台へ近付いてきた。ユギは腰に鉄の剣を佩いている。そういうことかと、セトは状況を心得た。
「痛みは少ない、と思う。一瞬だ。一瞬で、気付いた時にはもうイアル野への道だ」
 鉄は青銅よりもよく切れる。ユギが腰の剣を鞘から抜いた。陽を受けた刃が白く輝く。
「イアル野か」
 セトの瞳が揺らいだ。その色は冷たい石の青ではない。緑のがくに囲まれて咲く、美しき睡蓮の青だ。
「私がそこへゆけようとは」
 ユギは一度剣を降ろした。言うべき言葉を探す。
「結局、今のお前は、父を憎んでいるのか?」
 複雑だろう心境を問う。青の瞳を瞼に隠して、セトは首を振った。小さく、しかしはっきりと否定の向きに。
「ならイアル野で父に宜しくお伝えしてくれ。お前からは何かあるか? 何か、言い残したいことは?」
 セトはまたも首を振ろうとし、寸前で止めた。遠慮がちに薄く唇を開く。
「一つには、ナムのこと。墓守になると出て行ったが、実際どうしたものか気懸かりだ。国が治まった今、呼び戻すなりなんなりしてやって欲しい」
 分かったとユギが応える。ユギも元よりそのつもりだった。
「まあ、言っておくと、ナムとはもう既に何度か連絡を取っている。安心していい」
「そうか。――それなら、もう一つ。メンネフェルの王宮の、私が寝室として使っていた間の、タウレト像の腹を割ってその中にあるものを私の棺へともに入れてくれ」
 寝室のタウレト像。以前寝台の横に置かれているのを見た、猫ほどの大きさの女獣神像をユギは思い出した。安産の女神タウレトはセトにとって必要無きものであろうにと、不思議で覚えていたのだ。中に何が入っているかは知らないが、自分に必要な王冠は二つとも厨子の中であるし、金や銀とて、小像に入っている程度の量惜しむことは無い。
「お前の言う通りにしよう。マアトに懸けて」
 セトの唇の端が少し緩んだ。
「やっと、返して差し上げられる」
 返す。――何を? 両冠は既に己のものになると決まっている。王座も。金、銀、或いは石、それも違う。それは奪うまでもなく父が与えていた。では。
「私だけ返すというのも、腹立たしくはあるが」
 不意に目を開けたセトがどこか楽しげに笑う。思い当たってユギは赤面した。父に関して、あのアケタテンの廃墟で、どれほど探せど見付からなかったものが、一つあるではないか。
「お前が持っていたのか」
「私でなくて誰だというのだ」
 言いながら、再びセトは瞼を下ろした。ユギが重い剣を持ち上げる。剣は重たかった。鉄だからでなく、とても、重たかった。
「イアル野、か」
「大丈夫だ。必ず送ってやるから。父も、きっと待ち侘びているだろう」
 どちらを? セトが悪戯に問う。往くものか、タウレトの腹の中身か。
「恐らく、どちらも。だが正答は本人に聞け」
 ユギが鉄の剣を振り下ろした。気配に気付かなかったわけではないだろう。しかしセトは微かな笑みを浮かべた顔を、最後まで崩さずそのままでいた。


第六章 マアトよ見そなわせ 終


 これにて全ての終わり。タァウイ上下二国の偉大なる王セト陛下の審判に際し、真にマアトに背きしは誰かを明らむべく、彼の方の盟友にして弟なるプントの大蛇がこれを書き記せり。書き加えるもの、或いは削り取るものには、タァウイ、プント、両地の神々がその敵ならんことを。

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