セネト・パピルス 35(前)
2010/5/3
アテム・アメン=ヘテプの治世十六年、第四月。アケトの末のその月に、南の反乱が鎮まった。王の軍、そして諸侯らの軍がウアセトへ戻ってくる。先触れの船が到着し、凱旋の儀の準備が始まった。
真っ先にウアセト入りを果たしたのはケメヌ公の船である。そこへシェメヌやネンネスートの侯が続いた。
「王の船が見当たらないが」
ナイルの河岸にずらりと船が繋がれ出したが、どれも然程に大きな船ではない。セトはそれを見渡し、上陸したケメヌ公へ声を掛けた。
「王の船はプント船と連れ立ってくるらしい。プント船の用意を待って出るとの話だったから、今頃第一瀑流の辺りだろう」
「では到着は明日、もしくは明後日。このアケトの水の多さを思えば、明日とするのが妥当なところか」
セトの見解にケメヌ公が頷いた。近くにいたものたちも、皆、二人の会話をしっかりと心臓へ刻み付ける。王の帰還は明日。そうなると、凱旋の儀は翌日かそのまた翌日だ。
「待ち遠しいな」
ケメヌ公が言った。セトが曖昧に相槌を打つ。
ウアセトの船着き場に二隻の大船とその船団が舳先を並べたのは、次の昼下がりだった。
船の一つはラァの太陽船を模したもので、王が行きにも乗っていったものだ。そしてもう一隻。そちらには、セトも他のウアセトのものも見覚えが無かった。黒い木材で組み上げられた船の形は、タァウイのものではない。
「アソ号というそうだ」
太陽船から降りてきた王が、出迎えの面々の前で船の名を告げる。
「プント王が信奉する南風の女王の名だと。乗員は皆男だがな」
桟橋へ、アソ号から板が架け渡された。黒い肌の男たちがそこから河岸へ降りてくる。一人、二人、心の内でセトは数えたが、その数は三十六で止まった。
逞しい身体付きの黒い男たちが人々の前に並ぶ。中央の一人が前へ一歩踏み出した。
「この度は国の王の命を受け、大エジプトの支配者たる方に仕えんためプントよりやって参りました。どうか私どもにナイルの水を飲み黒土を踏みしめる栄誉をお与え下さいますよう、願い申し上げます」
男の顔が、一瞬だけセトを仰いだ。誰も気付かないほどの短い時間だった。
「無論、我々はそなたらを歓迎する。そうだな? 皆」
王がセトと大宰相を見遣る。二人は深く頷き、次いでセトが口を開いた。
「至当で御座います、ファラオ。明日の儀と宴が、プントの方々へのもてなしともならんことを」
その晩、帰還したばかりのアテムがセトの館を訪れた。侍女の知らせにセトが部屋の戸を開ける。入ってきた王は精油の甘い香りを纏っていて、戦場帰りの血生臭さは、すっかり取り除かれていた。
「お疲れではないのですか」
「まあ、な。勝利の心地好い余韻程度だが」
言いながらアテムは寝台に座った。招かれ、セトもその隣に腰を下ろす。
「疲労よりも、お前に逢えないことの方が辛かった」
鼻先が触れ合い、言葉尻が吐息になって頬に掛かる。セトが目を閉じるとくちづけが始まった。久方振りのそれは随分と長い間続けられ、セトが息を切らして漸く唇が離された。
「制圧後、クシュの王が服従の証として美しい娘たちを差し出してきたが、全て置いてきてしまった」
くちづけのあと、セトの頬に手を添えたまま、アテムが言う。
「皆、若く美しくて――お前よりも、怒るなよ、美しいものもいたかもしれないが――見目だけが問題では無いのだな。なまじお前が容色に優れているから、これまで深く考えたことは無かったが」
無かった、が? アテムの言いたいことを考え、それが解って、セトは目を瞠った。
「――さようで御座いますか」
セトの声が震える。聞いてはいけない。聞いてはいけない! 心臓がそう警鐘を打ち鳴らしていたが、彼には、もう、耳を塞ぐことなどできなかった。
「思えば、考えていなかった分、無神経なことも言ったかもしれない。お前が、見目を褒めると嫌な顔をするのは、そういうことだったんだろう。見目を褒めたからではなく、見目だけを褒めたから、怒ったんだろう」
おお睡蓮の花よ、我が愛しのセシェン、原初の水より生まれ、太陽の鼻先に美しく香るもの。音階に乗せてアテムが呟く。
「覚えているか? お前に贈った詩だ」
セトは頷いた。言葉も無かった。
「セト。アケトに咲き余の国を潤わせた睡蓮よ」
格の高い口調で、詩の続きを歌うように、アテムが言葉を紡いだ。
「この先、ペレトに入り、そしてシェムウが来て、花が枯れ茎が折れたその時も、お前は変わらず余の国に根を張っていてくれるだろうか」
セトは答えなかった。俯き、肩を揺らしながらやっと言った。
「もう少し――もう少し、早くその言葉をお聞きしたかった。でなければ、私が、どうして」
それ以上は口に出せず、セトは両手で口元を覆った。喉の奥から息がせり上がってくる。
「セト」
褐色の腕が彼を抱いた。
「この身の態度がお前に辛い思いをさせていたのなら、それを償わせてくれ。メリィ・イ・チュ。メリィ・イ・セシェン。――愛しているんだ」
とうとうセトの唇から嗚咽が零れ出した。アテムはセトの薄い背を撫でさすって彼を宥めようとしたが、それは逆効果だった。
肩口に押し付けられたセトの頭をアテムが撫でる。色素の薄い髪を何度か梳き、それから、彼はセトの顔を上げさせ、眦にくちづけた。
二人は寝台に倒れ込み、夜の四時間の間、互いの欲することをして過ごした。そして彼らは眠りに就き、もう四時間が過ぎる頃、朝がやってきた。
朝がやってきた。やってきてしまった、と、セトは思う。今更立ち止まれはしない。アテム・アメン=ヘテプは、今日、死ぬ。もはやそれは変えようの無いことだ。それを変えようと思えば内乱が起きる。アシュやプントと敵対することになる。我が身のことがどうあれ、アメン=ラァの脅威が去るわけではない。
自分一人の想いで、国家を、そこに住まうもの、住まったものたちを、蔑ろにすることはできない。
セトが身体を起こすと、横で唸り声が上がった。アテムが細く目を開いている。
「なんだ。もう起きるのか。祭典は夕暮れからだろう。もう少しくらい」
「儀の準備が。今日は私も神官の役を務めますので」
アテムが起き上がった。寝台を離れようとするセトの腕を引く。
「声が擦れているな。夜までに治るか?」
「……蜜でも舐めておきます」
言って、セトは寝台を降り床に立った。身体の中心が重い。肉体と、精神の、内側が重い。
アメン=ラァの許に参殿したセトを、待っていたのは儀に関わるものだけではない。この簒奪において味方であるものの内、プント人とネケトネチェルを除く三十四名、そして仮初の仲間ではあるが大神官ヘイシーン、それらのものがセトを待っていた。
「アシュの女主がいない、ということは、手筈通りなのだな」
「あぁ。彼女は今頃プント船アソの中だ。積荷を密かに降ろし、自族の手土産へ偽装している最中だ」
それが終わると、彼女は一旦、王宮へ品々を運び込む。そして再び族の本隊へ戻り、あまりに多過ぎて一度には運び切れなかった、ということになっている、残りの戦勝祝いを持ってウアセトへ再出発するのだ。
実際には、それは時間稼ぎである。宴の始まりからネケトネチェルの到着までの間、その短い時間に計画は動く。
「プントのものたちは?」
「この儀式から王の近衛に混ざると」
「そうか。それは好都合なことだ」
セトはぐるりと部屋の中を見回した。
「今一度確認しよう。我々は、今日、アテム・アメン=ヘテプを討つ。決行の時は凱旋の儀のあとの宴。アシュの女主が祝いの品を王に贈ったその時。間違いは無いか?」
語尾が掠れていたが、全員がその声を確かに聞き、同意を示した。
「我々は、立場こそ違えど、皆この企てを良しとしたものだ。それを明らかにすべく、ことは全員が立ち会うその場で、全員が束となって行う。これにも違いはあるまいな?」
無論だと誰かが叫んだ。
「では、各々定めた通りに。決行まで、決して勘付かれぬようにな」
人々は自分の役割を確かめ合い、必要な準備を終えると、ひっそり神殿を出て行った。大多数が去り、大神官も自室へ帰って、部屋に残ったのはセトとケメヌ公だけになる。二人は、どちらともなく近付いた。
「ヌブト公。決心のほど、貴公に揺らぎは無いのだろうな?」
「愚問を。今更何に揺らぐ」
「王の帰還にだ。貴公の目――感情を見せない石の瞳なのは変わらずだが、涙袋が腫れて見えるぞ。別れが惜しくなっているのではないだろうな」
セトは答えない。答えず、彼の質問に質問で返した。
「ヘジュウル・ケメヌ、ケメヌの家の司、貴公こそ良かったのか? 今のままいけば、この簒奪、大宰相には全く知らぬ話となる。あの老体を討つ気は無いが、そなたの家、割れるかもしれんぞ」
ケメヌ公が眉を寄せる。溜息とともに、彼は言葉を吐き出した。
「仕方の無いことだ。大宰相は王の、そして今は王子の、教育係でもある。自分が面倒を見た子供は可愛いもの。彼の翁には王を裏切れんだろう。知らせるべきではない」
そういうことだと、セトが口を挟んだ。
「仕方の無いことだ。違うか、ケメヌ公」
ヘジュウルが黙って腕を差し掲げる。彼を置いてセトは部屋を出た。儀式の準備をせねばならなかった。
神殿から館へ戻ったセトは、古い、箱を出して開けた。箱の中には幾つもの装身具が納められている。装身具自体もまた古く、そして、そのどれにもセトは見覚えが無い。全てセトのものであるが、それらを受け取り箱に仕舞ったのは侍女なのだ。
かつて贈られた品々。見たくもないと侍女に始末を押し付けたものたち。屈み込み、セトは箱の中へ手を入れた。金銀がぶつかり合って鳴り、鮮やかな色の布が衣擦れの音を立てる。
青い長衣は、ずっと仕舞い込まれていたとは思えぬほど美しい布だった。白い巻き袴と紫の上衣も同様、染み一つ無い。黄金の胸飾り、白銀の吊るし板、嵌め込まれた翡翠に天青石。それらを、セトは取り上げ、身に着けた。
身を飾り立てながら、セトは自分の運命を思う。王の言動に振り回され、アメン=ヘテプの負債に振り回され、決してアテム・アメン=ヘテプを信じてはならないと己に言い聞かせてきた十数年を思う。いずれ裏切られるのだからと、運命と名付けた子を前にして思ったことを思う。
王と臣下としてならば、裏切ったのはアテム・アメン=ヘテプだ。だが、あの時考えた意味で言えば、裏切るのは自分なのではないか? 自分が、アテム・アンジェティを裏切るのではないか?