セネト・パピルス 35(後)
2010/5/4


 セトの館に迎えの輿がやってきた。二人乗りの、箱付きの輿だ。王宮から来たそれには、既に王が乗り込んでいる。箱の幕を捲りセトが中へ入ると、彼は目を見開いた。
「似合いませんか」
「いや。まさか。お前に合うと思って用意させたものだぞ。だが、今まで一度だって」
「偶には、良いかと」
 今まで一度も身に着けたことが無かったからこそ、今日の、この一度くらいは。
 少しして、二人の輿が他の神官や貴人らの輿の中央に据えられると、巨大な銅板が打ち鳴らされた。儀式の始まりを告げる音である。箱から、まずセトが、続いて王が降りた。
 セトが表舞台に姿を現すのは久方振りのことである。儀式を取り仕切るのは更にだ。あとのことにも気を取られながら、それでも、セトは遥か遠い日に馴染んだ神官の務めを誤り無く行い、終えた。
 儀式が終わり、式典の参加者はそれぞれの輿に戻った。観衆も、凱旋祝いを名目とした祭りの準備に慌しく去っていく。
 人ごみの中、兵が道を確保すべく声を張っていた。民は、神官の輿は避けて通るが、王の輿へは、逆に群がってくる。王の輿の動きを止めてはならない。だが、王の輿の前に花を撒き願いを唱えれば、それは叶う。そういう言い習わしのため、兵が道を作らねば動くこともできないほどになるのだ。
 播種期に撒く穀物がよく育ちますように。息子が書記になれますように。時折籠の中まで聞こえてくる祈願に王とセトが耳を傾けていた時、唐突に、輿が揺れた。祈願のものが花を撒き損ねて輿を止めたかと思ったが、そうではないようだった。籠の外が騒々しい。信心深い祈願者がうっかりと輿の歩みを邪魔してしまっただけなら、騒ぎになどならずすぐに許される筈だ。
「何ごとぞ」
 幕を僅かに開き、セトが誰へともなく問うた。ざわめきが静まる。騒ぎの中心だったと思しき場所には、兵に取り囲まれた若い男女が青い顔で肩を寄せ合っている。恐らく、彼らが輿にぶつかったのだろう。不運にも、兵士が先触れによって作り出した道へ、人ごみを避ける内にでも、そうとは知らず入ってしまったに違いない。
 セトの問いに誰も答えないのがその証明のようなものだった。これが心底の不届きものなら誰かが彼らの罪状を告げた筈だ。そうしないのは、騒ぎの原因が些細なことだったからに他ならない。
「捨て置け、祭りの日に血など見とうないわ」
 セトの判断に兵士が躊躇いがちな確認を取る。恐らくは王に向けての言葉であろうが、それにもセトが答えた。少し強めた口調に、兵士がひれ伏し自身の愚鈍を詫びる。
「あぁ、もうよい。よいから進め」
 セトは兵士を見て俯いていた顔を上げた。幕を閉じようとし、その直前、人ごみの中に見知った顔があるのに気付く。
「セト? どうした」
 宙で止まった手をどう思ったか、隣に座るアテムがセトの顔を覗き込んだ。セトが幕を下ろし切り座りを直す。
「今、王子の姿が見えました」
「王子? 一のユギか」
「はい。王宮を抜け出し民に混ざって遊んでいたようです」
「またか。まあ、あとでシモンにでも言っておけばいいだろう」
 アテムの言葉に頷き、しかしセトは焦っていた。
 王子の身柄の確保は誰の役目だった? 宴の場で謀反が明らかとなった時、王子たちは既に捕らえられた状態でなければならないのだ。でなければ、謀反と王宮制圧の混乱に乗じて、あのすばしこい子供は逃げおおせてしまうかもしれない。
 もう宴が始まるまで他のものと連絡を取ることはできない。宴の開始を遅らせることも、決行を先送りにすることもできない。
 輿が王宮に到着した。広間に、アイシスとマナ、ナムが並んでいた。
「シモン様は?」
「今いらっしゃるでしょう。何か急ぎの用でも?」
 アイシスが珍しそうにセトを見る。一のユギだと、アテムが後ろからセトに代わり言った。
「抜け出して町で遊んでいたのを見掛けたらしい」
「まぁ。目が利きますわね。舞台から? それとも、移動の輿からかしら」
「輿からだ。輿に民がぶつかってな、兵士が騒ぎ立てたのをセトが止めた。兵と話すのに籠の幕を開けた、その時に見たんだと」
「あら、不届きものに対して寛容ですこと」
 ナムがこっそりと笑った。セトは、為政者としては厳格な部類だ。
「不届きものと言っても高々輿にぶつかった程度だ。そのような些事で祭りの日に血など見とうないわ」
「さっきも言っていたな。まあ、折角の祝祭日にというのは同意なんだが。――ああ、シモンが来たぞ」
 アテムが走ってくる老爺を顎で指した。呼ばれていると察したのだろう。彼はその老体に似つかわしくない速度で王たちの許へ走りきた。
「おう、シモン。急いで来たところ悪いが、一のユギが王宮を抜けて町に行っているようだ。放っておいてもその内には戻ってくるだろうが、ちょっと叱ってやっておいてくれ」
「王子が、またで御座いますか。解りました、では、失礼して」
 シモンは息を吐くと再び来た方向へ戻っていった。擦れ違いに、数人の貴族が入ってくる。宴の参加者だ。続くようにして花配りの乙女たちがやってきた。
 間に合わない。王子たちを捕らえておくのはアシュの手のものの役目であったことをセトは思い出した。宴の参加者ではない。今王子を探しに出て行ったシモンも、今日の宴には正式な参加者として名を連ねていない。だから、彼らを待って宴が停滞することは無い。もう止まらない。計画は、狂ったまま動き出してしまった。
「そろそろ時間ですわね。マナ、わたくしたちも行きましょう」
 アイシスがマナの腕に触れる。彼女たちは、王やセトとは異なる宴に出るのだ。セトたちの宴は地方貴族や此度やってきたプント人たちといった普段ウアセトに馴染みの無いものたちで行われるが、アイシスたちの宴は王宮の官僚や女官が主となる。
 宴の席を二つ設けるように進言したのはセトだ。邪魔ものは全て王妃の宴へ。王の宴の参加者は王を除いて七十三名、それは全てセトの企みに加担するものである。
 大神殿の使いがナムを呼びにやってきた。呼び付け、だが何をさせるわけでもない。ナムが呼ばれた先にはネケトネチェルの配下のものがいて、今日、これから起こることを、彼に説明する。ナムは恐らくこちらに付くだろうが、反発するようなら捕らえておく準備も無いではない。
 ナムが広間を出て間も無く、宴席に王と七十二名の参加者が揃った。残るは到着しだい合流とされているネケトネチェルのみである。宴が、始まった。
 席次はこれまでの宴と変わりない。大神官が参加する分の席が足され女たちがいない分は詰められるが、それだけだ。上座の中央に王、その隣にセトが侍り、続いて王の側にケメヌ公、セトの側に大神官が座る。そして下座の三十三名、近衛とともに警備を務めながら歓待を受けるプント人三十六名。
 人々は盃を交わし始めた。ように、見せ掛けた。セトやケメヌ公、下座でも王の席や近衛の立ち位置に近いものたちは実際に酒を注ぎ合い飲んでいるが、あとは違う。タァウイ人は酒が好きだが、この宴ばかりは酔いどれて散会とするわけにいかない。注ぐ振り、飲む振りで、彼らはアシュの女主を待っている。
「ファラオ。杯を。空でしょう」
 セトの役割は王を酔わせることであった。たとえ治世が拙かろうと、自ら戦場に赴き剣を振るう王なのだ。今とて敵兵から奪った鉄の剣を腰に佩いている。もしも打ち合いになってしまえば勝敗は解らない。数の利といってもプントの三十六名は近衛を相手にしなければならないし、残る三十七名も老体や剣に無縁の商人を多数含んでいる。壁際を取られ囲むことが叶わなければ、その程度の利は無も等しいだろう。
 それ故、セトの役目は王を機敏な動作など望めぬほどに酔わすことなのであった。アテムは企みなど知りもせずセトの注いだ酒を飲み続けている。
 そのまま、半刻ほどが過ぎた。
「西方チェヘヌウよりアシュの方々が参られました!」
 広間の戸を隔てて衛兵の声が聞こえてきた。近衛が扉を開く。そこから、美々しい木箱を台に載せ曳く一団が、入ってきた。


「お初にお目に掛かります、大エジプトの陛下。此度のご勝利と我らが朋友プントとの同盟を祝いたく、西の砂漠より参りました、アシュのネケトネチェルと申します。どうぞ我が族からの祝儀をお受け下さりますよう」
 ネケトネチェルの言葉とともに、木箱が前に押し出された。木箱は人の形をしている。人の形に彫られた上に、金箔、銀箔、数多の宝石があしらわれているそれは、タァウイで一般的な棺の形だ。だが、ただの棺にしては、その装飾の美しさは異様だった。彼女がこれを持ってくると知っていたものたちでさえ、あまりの絢爛さに、初めそれが何か判らなかったくらいである。
「以前、我が族のものがこの地で没し、神職の方の世話になったことが御座います。その際にお聞きしたところ、タァウイの方々は肉体の最盛期の内に来世へゆく準備をなさるのだとか。ご恩を返すにも時期良きものかと思いお持ちしました」
 女が合図をすると、彼女に付いていた男が一人、棺に近付きその蓋を開けた。
「外は先程ご覧の通り。内側には、敢えて箔を貼っておりませんが、そのわけは近付いてお確かめを。材質はハトウアレトの北に住まう我が姉妹族より得た香木で御座います。遮るもの無き香りが、お身体をお包み致すでしょう。また、微かに漂う清浄な香りは、この度プントの方々が乗っていらしたアソ号より、以前シェズの港で買い付けさせて頂いた、上等の乳香を摩り込んだもの」
 おお、と感嘆の声が上がる。ネケトネチェルは、さて、と微笑んだ。
「これが我が族からの祝儀の一つで御座いますが――ただ陛下に差し上げるのでは余興にもなりません」
「というと?」
「見ての通り、これは棺で御座います。それであるからには、やはり、この中に身体をぴたりと納められる方に差し上げるのが筋というもの。足がはみ出る方、胴が納まらない方、内側で身体が泳ぐ方には使いどころも無いでしょう」
 ネケトネチェルが手を打つとアシュの男たちが棺から離れた。
「さぁ、この棺に最も巧く入れる方はどなたでしょうか。順にお試し下さい。身の丈、肩幅、胴回り、全てが綺麗に内へ納まった方、その方にこれを差し上げたく存じます」
 人々が棺の周りに集まってくる。穿たれた穴は、一見、ありふれた体型用のものに見えた。
「一番手は有利だぞ。セト、お前から入るか」
「私ですか。丈が少し合わぬような気が致しますが……」
 言いながら、セトは棺の中へ横たわった。駄目だ、と、すぐに誰かが言った。
「足先がつかえているし、胴回りは余り過ぎだ」
「ヌブト公で丈が合わぬなら、大神官殿も駄目ですな」
 セトは比較的長身だが、ヘイシーンはそれよりも上である。
「となると次はケメヌ公か。横幅は合いそうに見えるが、さて、縦幅はどうだ?」
 指名され、ヘジュウル・ケメヌはセトがのいたあとの棺に足を入れた。ゆっくりと屈み込み、上体を倒そうとして、途中で立ち上がった。
「どうも足の長さが足りそうに無い。しかも胴回りも怪しいところ。もう少し若い頃、背が縮み出し贅肉が増える前ならちょうどだったかもしれないが」
 彼の自己査定に笑いが起こった。では次はと、アテムが人々を見回す。
 順々に棺へ横たわる人が入れ替わり、結局、王を除く全てのタァウイ人が試したが、誰もちょうどに納まることはできなかった。ありふれた体型用に見えたそれは、その実、非常に精密に、特定の人物の身体付きを模している。
「全く、余興も余興だ。最後はこうなるのではないか」
「出来試合だと? けれど、誰の身体にも合わぬのかも知れません」
 ネケトネチェルがそう嘯く。
「まあいい、ここまでやったんだ。最後の一人として入らぬのもな」
 アテムは立ち上がり棺に向かって一歩踏み出した。酔いのためか幾分覚束無い様子で棺の中に腰を下ろす。
「胴回りは問題無いな。足――足も入った」
 棺の傍へセトがやってきた。一瞬だけ、アテムは辺りを見回したが、セトの促す声にそのまま上体を棺の底へ沈め出した。肩がつかえも泳ぎもせず穴に嵌り込み、最後の最後、首を後ろに倒した、その時だった。
「蓋!」
 セトが叫んだ。自分の番が終わったあと後ろに下がっていた筈のものたちが、棺の蓋を持ち上げていた。アテムは、恐らく、何が起きているのか、解らなかったのだろう。蓋が真上に迫って初めて、彼は身体を起こそうとした。
「なんの真似だ!」
 蓋を閉めようとする力と押し戻そうとする力がせめぎ合って、押し戻す力が勝った。アテムが片腕で蓋を支えながら、開いた手を腰に伸ばした。そこには、鉄の剣がある。
 駄目だ、あれを握られたらお終いだ。人々が諦め掛けた瞬間、セトが動いた。細い腕が棺の隙間に滑り込み、アテムよりも早く鉄剣を掴んだ。鞘から滑り出た鉄の刃が円形に軌跡を描く。その軌道に王の上体があった。
「蓋を合わせろ! 早く!」
 我に返った人々が棺に群がった。今の傷は即死の傷ではない。アテムが蓋を落としたのは痛みによる反射で腕を揺らしたからだ。再び押し戻される前に、半端に覆い被さっているだけの蓋をきっちり閉じ切らなくてはならなかった。
「縄を、誰か! 巻き付けろ!」
 セトは、叫びながら、鉄の剣を握った手が振るえているのに気付いた。指に返り血が付いているのを見て、遠退きそうになる意識を、どうにかして奮い立たせる。
 棺は、縄が巻かれてもまだ、音を立て小刻みに揺れていた。中でアテムが動いているのだった。
「早く! 早くナイルへ! 誰も助けられぬよう、流れの中央へ! 早く棺を捨てよ!」
 近衛を片付けたプント人たちが集まってきて、アシュが曳いてきた台の上へ棺を載せた。入ってきた時のように、棺は台ごと動き出した。
「セト様!」
 安堵に崩れ落ちそうになった彼を、ネケトネチェルが呼んだ。
「お気を確かに。まだです。まだ威厳を失ってはなりません」
 小声だった。低く潜めた声で、女はセトに言った。
「貴方は、王として、これからもう一仕事成すのですから。貴方がそれを遂行できると、誰にも疑いを持たせてはなりません。貴方の敗北が予兆されれば、いつ寝返るものが出るか解らないのですから」
 アメン=ラァに対することを言うのだ。だが、と、弱音が口を衝き掛けたセトを、彼女は黙らせた。
「セト様。貴方の仰ったことではありませんか。方々は、そのことに関しては、信用に足らぬと。信頼できぬものに弱い姿を見せてはいけません。人も動物と同じ――弱みを見せれば途端に食い殺されてしまう」
 女の青い瞳が、鋭い光を湛えていた。実例を知るものの目だった。その場に頽れたい衝動を堪え、セトは広間中に響き渡る大声を発した。
「王座の女と王子たちを捕らえよ! 一の王子は先程まで王宮を抜け出し町にいた! まだ誰もその身を確保できていない筈だ!」
 ネケトネチェルは黙ってセトの傍を離れ、ナイルへ向かった族のものを追った。他の男たちも、王妃の宴に踏み込むべく、また王子を捕らえに行くべく、広間を飛び出す。
 彼らに幾らか遅れて、セトは部屋を出た。謀反! セト・カスト・ヌブティの謀反! どこかで王の兵が叫んでいる。セトの周囲をプント兵が固めた。
 セトは王の間へ向かっていた。その途中で、アイシスと出くわした。
 王妃であった女は、彼女の庭の、王宮から直接は通り抜けできない、人工池を挟んだ向こうにいた。
「何が祭りの日に血など見とうないです、この大嘘吐き」
 アイシスがセトを詰る。セトの、まだ清められていない、血に濡れた両の手が胸の高さに持ち上げられた。
「嘘ではない」
 弁明に、アイシスが片眉を吊り上げる。
「嘘ではない。見とうなかった。……祭りの日で、なくても」
 語尾が潤んでいた。アイシスは息を呑み、そしてナイルの方角へ走り出した。逃げたいわけではなかった。だが、走らねばならないと彼女は思った。
 走らなくては。棺に追い付かなくては。あの血ではきっともう助からないけれども、せめて正しき葬礼を挙げなければ。でなければ、誰一人、救われないわ。現世でも、来世でさえも。
 王座の女は走った。その背に虚ろな視線を感じながら庭を飛び出した。途中、泣き惑うマナを見付け、そこからは彼女もともに走った。ナイルの河沿いを走り、少し行ったところで、舟を捕まえて乗った。
 彼女がアケト・アテンに着いたのは、四日後のことだった。


第三章 メリィ・イ・セシェン (後編) 終


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